できごと

トイトブルク森の戦い

Battle of the Teutoburg Forest
AD9年
重要度 5
トイトブルク森の戦いに関わる図版:Epitaph des Marcus Caelius
Epitaph des Marcus Caelius Wikimedia Commons Agnete · Public domain

概要

3個軍団が全滅し、ローマはライン川より東への拡大を諦めた。ヨーロッパの東西を分ける線がここで決まる。

場所

トイトブルク森位置は特定されていない(誤差 ±25km)
52.19°N 8.62°E · ドイツ・ニーダーザクセン州(戦場の位置は長く不明だった)

本文

アウグストゥスの時代、ローマはライン川を越えて東へ進もうとしていた。紀元前12年から、皇帝の義理の息子ドルススが何度も遠征し、エルベ川にまで達した。ドルススが落馬がもとで死ぬと、兄のティベリウスが後を継いだ。ライン川とエルベ川のあいだの土地は、ローマの属州ゲルマニアになりつつあった。

ライン川は、約60年前、ガイウス・ユリウス・カエサルがガリア戦争の途中で初めて橋を架けて渡った川でもある。カエサルはガリアを征服したが、ライン川の東には深入りしなかった。アウグストゥスはその先へ進み、帝国の北の境をエルベ川まで押し上げようとしていた。軍の宿営地のほか、広場を持つ町の建設も始まっていたことが、近年の発掘で分かっている。フランクフルトの北のヴァルトギルメスでは、皇帝の騎馬像を置いたとみられる広場の跡が見つかった。

ガリア戦争に関わる図版:Lionel Royer - Vercingetorix Throwing down His Weapons at the feet of Julius Caesar
ガリア戦争Wikimedia Commons Lionel Royer · Public domain

紀元6年、ドナウ川の南のパンノニアで大きな反乱が起こり、ローマの兵力の多くがそちらに向けられた。同じころ、ゲルマニアの総督にはウァルスが任じられた。シリア総督などを務めた経験豊かな人物で、皇帝の一族と縁戚関係にあった。ウァルスはゲルマニアを、すでに税と法で治める段階に入った土地として扱ったとされる。

ウァルスの側にいたのが、ケルスキ族の首長の息子アルミニウスだった。ローマ軍の補助部隊を率いて仕え、ローマの市民権と騎士の身分を与えられていた。ローマのやり方も、ローマ軍の強さと弱さも、よく知っていた。アルミニウスはひそかに諸部族をまとめ、反乱を準備していた。同じケルスキ族のセゲステスがウァルスに警告したが、ウァルスは聞き入れなかったと伝えられる。

戦場に突き進むゲルマン戦士たち(1909年の絵)
戦場に突き進むゲルマン戦士たち(1909年の絵)Wikimedia Commons Otto Albert Koch · Public domain

紀元9年の秋、ウァルスは夏の陣営から冬の拠点へ戻る途中、遠くの部族が反乱を起こしたという知らせを受け、道をそれて鎮圧に向かった。アルミニウスは援軍を集めてくると言って先に離れた。行軍の列は、兵士のほかに荷車や家畜、従者や家族まで含んで長く伸びていた。

森と丘と湿地にはさまれた細い道で、ゲルマン人が襲いかかった。雨で地面はぬかるみ、ローマ軍は得意な隊形を組めなかった。攻撃は数日にわたって続いた。第17、第18、第19の3個軍団と補助部隊、合わせて1万5000から2万ほどが壊滅した。ウァルスは自害した。軍団の象徴である鷲の旗も奪われた。

ローマのマルス・ウルトル神殿に掲げられた軍旗(鷲旗)を描いたローマ貨
ローマのマルス・ウルトル神殿に掲げられた軍旗(鷲旗)を描いたローマ貨Wikimedia Commons Sailko · CC BY 3.0

知らせを受けたアウグストゥスは、何か月も髭も髪も剃らず、ときどき戸口に頭を打ちつけて「ウァルスよ、軍団を返せ」と叫んだと、歴史家スエトニウスは伝えている。失われた3個軍団の番号は、その後二度と使われなかった。

戦場がどこだったかは、長く分からなかった。1987年、ドイツ北西部オスナブリュックの近くのカルクリーゼで、ローマの貨幣や武具が大量に見つかった。その後の発掘で、ゲルマン人が築いた土塁の跡なども出てきて、ここが戦場の中心だった可能性が高いとされている。ただ、戦いは何日も続いた移動の戦いであり、この一か所に限られるわけではないと考えられている。

低地ザクセン丘陵地帯の地図
低地ザクセン丘陵地帯の地図Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Langläufer assumed (based on copyright claims). · Public domain

ローマはすぐに諦めたわけではなかった。紀元14年から16年にかけて、ティベリウスの養子ゲルマニクスが大軍を率いてライン川を越えた。歴史家タキトゥスによれば、ゲルマニクスは紀元15年に戦場の跡を訪れ、野ざらしになっていた兵士の骨を埋葬した。失われた鷲の旗のうち二つを取り戻したが、ゲルマニアを再び支配下に置くことはできず、ティベリウスは遠征をやめさせた。アルミニウスはその後、同じゲルマン人どうしの争いの中で、紀元21年ごろに身内に殺されたとされる。

タキトゥスはタキトゥス『年代記』で、アルミニウスを、まだ若いローマではなく最盛期のローマに挑んだ、ゲルマニアの疑いなき解放者だと評している。敵の側の歴史家が、これほどの言葉を贈っている。タキトゥスはまた、ライン川の東の人々の暮らしを『ゲルマニア』に書き残した。

タキトゥス『年代記』に関わる図版:Tacitus, Annales XI-XVI, editio princeps, ca. 1471-72, incipit
タキトゥス『年代記』Wikimedia Commons Tacitus · Public domain

以後、ローマの国境はおおむねライン川に固定された。後にライン川の上流とドナウ川を結ぶ防壁が築かれ、ブリタニアのハドリアヌスの長城と同じように、帝国の境界を形作った。その外側の人々は、ローマの属州になることなく、やがてフン人の西進とゲルマンの移動の時代を迎える。

ローマが最も広くなったローマ帝国の最大版図の時代にも、ゲルマニアの大半は帝国の外にあった。そしてライン川を越えてきたゲルマン系の人々が、やがて西の帝国の担い手になっていく。西ローマ帝国の滅亡まで、この川はローマと外の世界を分ける線であり続けた。

1838〜1875年に建てられたヘルマン記念像
1838〜1875年に建てられたヘルマン記念像Wikimedia Commons Hubert Berberich ( HubiB ) · CC BY 3.0

ライン川の西はやがてフランス語などのロマンス語の土地になり、東はドイツ語などのゲルマン語の土地になった、と説明されることが多い。ただし実際の言語の境界は、ローマ帝国が崩れた後のフランク人などの移住で決まった部分が大きく、ライン川と完全に重なるわけではない。オランダやベルギーの北部、ライン川の西岸のドイツの地域は、ローマの属州だったがゲルマン語の土地になった。この戦いだけで境界が決まったと言うのは単純化しすぎである。

19世紀、ドイツの統一が進む中で、アルミニウスはドイツ語風に「ヘルマン」と呼ばれ、外国の支配と戦った民族の英雄に祭り上げられた。1875年には、デトモルト近くの丘に巨大なヘルマン像が建てられた。ローマで教育を受け、ローマ軍に仕えた人物が、ドイツ民族の始まりの象徴にされたのである。

出典(1)

塩野七生 『ローマ人の物語』VI パクス・ロマーナ

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