マリウス
概要
無産市民を兵に取り、軍を将軍個人に忠実な集団へ変えた。内乱の世紀の入口。
所属
共和政ローマ関わったできごと(2)
マリウスの軍制改革BC107年 · 当人アクアエ・セクスティアエの戦いBC102年 · 勝った本文
ガイウス・マリウスは紀元前157年、ローマの南東、アルピヌムの近くの村に生まれた。のちの弁論家キケロと同じ土地の出身である。家はローマの元老院の門閥とは縁の無い地方の家で、騎士身分だったとも、農民だったともいわれる。若い頃にギリシア語の教育を受けなかったことを、彼は後年、むしろ誇りにしていたという。

最初の足がかりは軍隊だった。紀元前134年ごろ、ヒスパニアのヌマンティアを包囲していた小スキピオのもとで従軍し、勇敢さで目を引いた(ヌマンティア陥落)。宴席で、あなたの後を継げるほどの将軍がほかにいるだろうかと問われたスキピオが、隣にいたマリウスの肩を叩き、おそらくこの男だ、と答えたという話がプルタルコスに伝わる。その後、護民官、法務官と進んだが、法務官の選挙では買収の疑いをかけられ、辛うじて当選した。名門の出でない者が、父祖に執政官を持たない「新人」として上っていくのは、それほど難しいことだった。この頃、マリウスは由緒あるユリウス家の娘ユリアと結婚している。ユリアの甥が、のちのガイウス・ユリウス・カエサルである。
転機は北アフリカのヌミディア王ユグルタとの戦争だった(ユグルタ戦争)。ユグルタはローマの元老院議員たちを買収して戦いを長引かせ、ローマの民衆は門閥の無能と腐敗に怒っていた。マリウスは名門の将軍メテッルスの副官として従軍していたが、自分ならすぐに戦争を終わらせると言ってローマへ戻り、紀元前107年の執政官に選ばれた。

兵を集めるにあたって、マリウスは、財産を持たないために兵役の対象とされてこなかった貧しい市民を、志願兵として大量に受け入れた。それまでのローマ軍は、自分で武具を整えられる土地持ちの農民から兵を取る市民の軍隊だったが、その農民層はすでに大きく痩せ細っていた。マリウスの軍の兵士は、武具を担い、自分の荷物を背負って行軍したので、マリウスのラバとあだ名された。ユグルタは、紀元前105年、マリウスの財務官だったスッラの交渉によって、隣国の王から引き渡されて捕らえられた。手柄をスッラと分け合うことになったこの一件は、二人の確執の始まりとなった。
同じ頃、北からはゲルマン系とされるキンブリ族とテウトネス族が南下し、紀元前105年には南ガリアのアラウシオで、ローマの二つの軍がまとめて壊滅していた。死者は8万ともいわれる。恐怖に駆られたローマの民衆は、マリウスを紀元前104年から5年続けて執政官に選んだ。同じ人物が続けて執政官になるのは、慣例を大きく破ることだった。マリウスはこの間に軍を鍛え直し、紀元前104年には、それまで部隊ごとにまちまちだった軍団旗を、銀の鷲に統一したと伝えられる。紀元前102年にアクアエ・セクスティアエでテウトネス族を、翌年にはイタリア北部のウェルケラエでキンブリ族を破った。マリウスは、ローマを救った第三の建国者とたたえられた。
これらの改革がどこまでマリウス一人の仕事だったかについては、研究者の間で議論がある(マリウスの軍制改革)。貧しい市民の兵役への取り込みは、彼の前から少しずつ進んでいたとされる。ただ、土地も財産も持たない兵士たちは、除隊したあとの暮らしを国家ではなく、自分たちを率いた将軍に頼るようになった。退役兵に土地を与えるよう求めて政治を動かすのも将軍の役目になり、兵の忠誠は国家より将軍個人に向かい始めた。

戦場で無類の強さを見せたマリウスも、ローマの政治の場では不器用だった。紀元前100年、6度目の執政官の年、退役兵への土地分配を進める護民官サトゥルニヌスと手を組んだが、サトゥルニヌスが選挙のさなかに対立候補を殺させて暴動になると、元老院の求めに応じて、かつての盟友を武力で鎮めた。民衆からも元老院からも信を失い、マリウスはしばらく政治の表舞台から遠ざかった。
紀元前88年、東方でミトリダテス6世との戦争が始まると、その指揮権は執政官スッラに与えられた。すでに70歳近いマリウスはそれを欲しがり、護民官を動かして、民会の決議で指揮権を自分に移させた。スッラは兵を率いてローマへ攻め上った(ミトリダテス戦争)。ローマの軍がローマの町に向かって進軍したのは、これが初めてだった。マリウスは逃げ、イタリアの沼地に身を隠したが見つかって捕らえられた。プルタルコスによれば、牢の暗がりで、首をはねに来た兵士に、おまえはガイウス・マリウスを殺す気か、と一喝すると、兵士は剣を捨てて逃げ出したという。マリウスは北アフリカへ逃れ、カルタゴの廃墟に座っていたと伝えられる。

スッラがローマを離れて東方へ向かうと、紀元前87年、マリウスは執政官キンナと組み、兵を集めてローマに戻った。都を押さえると、スッラ派とみなした人々を数日にわたって殺させた。マリウスが挨拶を返さない者は、その場で殺されたとさえ伝えられる。翌紀元前86年、マリウスは7度目の執政官に就いたが、その月のうちに病で死んだ。70歳だった。
数年後、東方から戻ったスッラは内戦に勝ってローマを制し、今度はマリウス派を大量に殺した(スッラの独裁)。マリウスの墓は暴かれて遺骸は川に投げ込まれ、記念碑は壊された。だがその流れはやがて、マリウスの甥にあたるカエサルへと引き継がれていく。将軍と、その将軍に生活をかけた兵士たちが、ローマの政治を左右する時代は、マリウスとともに始まった。