人物

ネロ

Nero
37年12月15日 – 68年6月9日(享年30)
ローマ帝国重要度 4

概要

ローマ大火の責をキリスト教徒に負わせたと伝わる。反乱に追われて自死し、王朝が絶えた。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

ローマ大火AD64年7月 · 当時の皇帝

本文

37年12月15日、ローマの南の港町アンティウムに生まれた。本名はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。母小アグリッピナは初代皇帝アウグストゥスの曾孫で、皇帝カリグラの妹にあたる。父は幼いうちに死に、母は兄カリグラに追放されたこともあった。皇帝の血を引くことは、この時代、命の危険と隣り合わせだった。

ネロの胸像(ミュンヘン・グリプトテーク)
ネロの胸像(ミュンヘン・グリプトテーク)Wikimedia Commons Public domain

49年、母は叔父にあたる皇帝クラウディウスと結婚した。翌年、ルキウスはクラウディウスの養子になり、ネロと名を改める。皇帝の実子ブリタンニクスより年上だったことが、後継の争いで有利に働いた。クラウディウスの娘オクタウィアとも結婚させられた。家庭教師には、哲学者セネカが付けられた。

54年、クラウディウスが死んだ。母が毒キノコを食べさせたと古代の史家は書くが、確かめようはない。ネロは16歳で即位した。最初の5年ほどは、セネカと近衛長官ブッルスが政治を支え、評判がよかった。義弟ブリタンニクスは即位の翌年、宴の席で急死している。これも毒殺と伝えられる。

セネカとネロ(左)。コルドバの像
セネカとネロ(左)。コルドバの像Wikimedia Commons Hoshidoshi · Public domain

実権を握ろうとする母との対立は深まり、59年、ネロは母を殺させた。沈むように細工した船に乗せたが母は泳いで助かり、結局は兵に刺し殺させた、と史料は伝える。62年にブッルスが死ぬとセネカも退き、ネロは妻オクタウィアを離縁して流刑にし、殺させた。新しい妻ポッパエアも、3年後に死んでいる。

64年7月、ローマで大火が起き、9日にわたって燃えた。14の区のうち3つが全焼し、7つが大きな被害を受けたとタキトゥスは書く(ローマ大火)。このときネロはアンティウムにいて、急いで戻り、庭園を開放して焼け出された人々を受け入れ、穀物の値を下げさせた。竪琴を弾きながら燃えるローマを眺めていたという話は、本人が現場にいなかったという記述と合わない。

ローマ大火に関わる図版:Robert, Hubert - Incendie à Rome -
ローマ大火Wikimedia Commons Hubert Robert · Public domain

それでも、焼け跡に黄金宮殿と呼ばれる広大な宮殿を建て始めたことで、皇帝が放火させたという噂が広まった。噂を打ち消すため、ネロはキリスト教徒を犯人として捕らえ、獣の皮を着せて犬に噛ませ、火あぶりにした。タキトゥスは『年代記』でこれを記し(タキトゥス『年代記』)、民衆がかえって彼らを哀れんだと書いている。ローマの権力によるキリスト教徒の迫害として、記録に残る最初のものとされる(物語「キリスト教のひろがり」)。

ネロを語る史料は、主にタキトゥス、スエトニウス、カッシウス・ディオの三人による。いずれも元老院の側に立つ書き手で、ネロの死から数十年から150年ほど後に書いている。元老院を軽んじた皇帝が、彼らに良く書かれることはない。母殺しのように疑いにくい事実もあるが、細かい逸話には割り引いて読むべきものが多いとされる。

『The Remorse of the Emperor Nero after the Murder of his Mother』ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作(1878年)。母を謀殺した後の皇帝ネロ。
『The Remorse of the Emperor Nero after the Murder of his Mother』ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作(1878年)。母を謀殺した後の皇帝ネロ。Wikimedia Commons John William Waterhouse · Public domain

65年、元老院議員ピソを担ぐ暗殺の計画が発覚した。ネロは関わった者を次々に処刑し、師セネカにも自死を命じた。詩人ルカヌスも同じく死を命じられている。

芸術家として認められたがった皇帝だった。人前で竪琴を弾いて歌い、戦車を駆った。66年から翌年にかけてギリシアを巡り、オリンピアをはじめ各地の競技会に出場して、すべてで優勝した。戦車から落ちても優勝とされたと伝わる。感謝のしるしに、ギリシアの諸都市に税を免じる「自由」を与えた。同じ66年、ユダヤでは大きな反乱が始まっていた。

初代ローマ教皇・ペトロ。
初代ローマ教皇・ペトロ。Wikimedia Commons Peter Paul Rubens · Public domain

68年、ガリアの総督ウィンデクスが反乱を起こし、ヒスパニアの総督ガルバがこれに続いた。近衛隊にも見放され、元老院はネロを国家の敵と宣言した。ネロはローマ郊外の解放奴隷の別荘へ逃れ、6月9日、首に刃を当てて死んだ。30歳だった。死に際に「なんという芸術家が死ぬことか」と言ったと、スエトニウスが伝えている。

アウグストゥスから続いたユリウス=クラウディウス朝は、ここで絶えた。翌年には4人の皇帝が次々に立つ内乱が起きる。一方で、民衆の中にはネロを慕う者も多く、墓には長く花が供えられたとスエトニウスは記す。ネロは実は生きていて東方から戻ってくるという噂が広がり、偽のネロが何度か現れた。キリスト教の側では、迫害者ネロは悪の象徴として語り継がれていく。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD37年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →