できごと

キュノスケファライの戦い

Battle of Cynoscephalae
BC197年
重要度 4
キュノスケファライの戦いに関わる図版:Macedonia and the Aegean World c.200
Macedonia and the Aegean World c.200 Wikimedia Commons Kryston · Public domain

概要

ローマの軍団が、マケドニアのファランクスを丘の上で破った。長槍の密集隊は横から崩れた。翌年フラミニヌスはコリントスで「ギリシアの自由」を宣言し、歓声で鳥が落ちたと伝わる。自由は、ローマの許す限りだった。

場所

キュノスケファライ
39.42°N 22.55°E · ギリシア・テッサリア

関わった人(1)

フラミニヌスBC229年–BC174年 · 総指揮

本文

マケドニアの王フィリッポス5世は、紀元前215年、カンナエの戦いでローマを大敗させたハンニバル・バルカと同盟を結んだ。大きな戦いにはならなかったが、ローマはそれを忘れなかった。ザマの戦いでカルタゴを降した翌年の紀元前200年、ローマは、フィリッポスに攻められたギリシアの国々の訴えを口実に、マケドニアに戦いを挑んだ。第二次マケドニア戦争である。

最初の2年、ローマの軍はマケドニアの守りを崩せなかった。紀元前198年、30歳ほどの若い執政官ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスが指揮を引き継いだ。彼はギリシア語を話し、ギリシアの文化を愛した。ローマはギリシア人をマケドニアの支配から自由にするために戦うのだ、と彼は宣伝し、アイトリア同盟に続いて、アカイア同盟もローマの側についた。

キュノスケファライの戦いの戦術図(各局面を示す)
キュノスケファライの戦いの戦術図(各局面を示す)Wikimedia Commons Javierfv1212 ( talk ) · Public domain

紀元前197年の初夏、両軍はテッサリアの、「犬の頭」を意味するキュノスケファライと呼ばれる丘の連なりの近くで出会った。霧が濃く、互いの位置がよく分からないまま、丘の上で斥候どうしの小競り合いが始まり、それが全軍の戦いに広がった。

マケドニアの主力は、ファランクスと呼ばれる長槍の密集隊である。兵は16列の深さに並び、長さ5メートルを超える槍を前へ突き出す。正面から見れば、槍の穂先が何重にも重なった壁で、平らな土地でぶつかれば、どんな歩兵も押し返された。フィリッポスは、先に整った右翼を丘の上に上げ、丘を駆け下りてローマの左翼を押しまくった。

Melancholischer Römer
フラミニヌスWikimedia Commons -- Xocolatl ( talk ) 14:11, 26 September 2010 (UTC) · Public domain

だが、マケドニアの左翼は、丘を越えてくる途中で、まだ隊列を組めていなかった。フラミニヌスはそこへ、象を先頭に自分の右翼をぶつけ、崩した。そのとき、名を残していない一人の軍団の将校が、勝っている右翼から20の中隊を引き抜き、丘を回り込んで、ローマの左翼を押している敵のファランクスの背後に出た。長い槍を前へ構えたファランクスは、すぐには後ろを向けない。兵たちは逃げることもできずに討たれた。マケドニアの兵は8000人が死に、5000人が捕らえられたのに対し、ローマの死者は700人だったと伝えられる。

ギリシアの歴史家ポリュビオスは、この戦いを手がかりに、ファランクスとローマの軍団を比べた。ファランクスは、平らで開けた土地で正面からぶつかれば無敵である。だが丘や溝や林で隊列が乱れれば隙間ができ、横や後ろからの攻撃には弱い。小さな中隊に分かれたローマの軍団は、どんな地形でも、どの向きにも戦える。アレクサンドロス以来の東の戦い方に、西の新しい戦い方が勝ったのである。

フィリッポスは和を請い、ギリシアから兵を引き、艦隊の大半を引き渡し、賠償を払い、息子を人質に出した。翌紀元前196年、コリントスでイストミア祭の競技が開かれたとき、使者が競技場で、ローマの元老院とフラミニヌスの名において、ギリシアの諸都市を自由とし、守備隊を置かず、貢ぎ物を課さず、自らの法で治めさせると読み上げた。歓声があまりに大きく、上空を飛んでいた烏が競技場へ落ちてきた、とプルタルコスは書いている。フラミニヌスは、彼に触れようと押し寄せた群衆に、危うく押しつぶされそうになった。

紀元前194年、ローマの軍は約束どおりギリシアから全て引き上げた。人々は、本当に自由になったと思った。だが、ローマの思うように扱われなかったアイトリア同盟は不満を抱き、シリアの王アンティオコス3世(大王)をギリシアへ招き入れた。ローマは再び海を渡り、マグネシアの戦いでアンティオコスを破る。紀元前168年にはピュドナの戦いでマケドニアの王国そのものが滅び、紀元前146年、ローマに背いたコリントスは焼かれた(コリントス破壊)。自由の宣言から50年後のことである。ギリシアの自由は、ローマが許す限りの自由だった。

同じ時代のできごと

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