スパルタクスの反乱
概要
カプアの剣闘士養成所から始まった奴隷反乱。2年にわたりイタリアを揺るがした。
場所
41.08°N 14.25°E · イタリア・カンパニア州
本文
紀元前1世紀のイタリアでは、征服戦争で連れてこられた奴隷が大量に働かされていた。大農場や鉱山で酷使される者もいれば、見世物のために戦わされる剣闘士もいた。剣闘士の試合は、もとは有力者の葬儀に伴う催しだったが、この時代には、政治家が人気を得るための大きな見世物になっていた。のちにコロッセウムの完成で数万の観客を集めることになる見世物の、ちょうど育ちつつあった時期である。ローマはこのころ、スッラの独裁を経て、なお内乱の傷が癒えていなかった。
紀元前73年、南イタリアの町カプアにあった剣闘士の養成所から、70数人が脱走した。養成所を営んでいたのはレントゥルス・バティアトゥスという男である。彼らは調理場から包丁や焼き串を持ち出して武器にし、途中で剣闘士用の武器を運ぶ荷車を奪ったと伝えられる。その指導者に選ばれたのが、トラキア出身のスパルタクスだった。ガリア出身のクリクススとオエノマウスも、指導者に加わっていた。

一行は、ナポリの近くのヴェスヴィオ山に立てこもった。ローマはまず、法務官のクラウディウス・グラベルに3000の兵を与えて討たせた。グラベルは山の唯一の登り道を塞いで、飢えるのを待った。ところがスパルタクスたちは、山に生えていた野ぶどうの蔓で縄ばしごを編み、断崖を伝って下りて、ローマ軍の背後に回り込み、陣地を襲って打ち破った。
勝利の知らせが広まると、各地の農場から奴隷たちが逃げ出して加わり、貧しい自由民も合流した。一行はたちまち数万にふくれ上がった。最盛期には10万を超えたとも伝えられる。ローマはなおも盗賊の類と軽く見て、法務官の軍を差し向けたが、次々に破られた。

紀元前72年、ローマはついに2人の執政官にそれぞれ軍を与えて鎮圧に当たらせた。クリクススは、スパルタクスと別れて行動していたところを、南イタリアのガルガヌス山の近くで討たれた。しかしスパルタクスは、2人の執政官の軍をいずれも破り、北イタリアへ進んで、アルプスの南の属州の総督の軍も打ち負かした。
一行が何を目指していたのかは、はっきりしない。プルタルコスは、スパルタクスがアルプスを越えて、それぞれの故郷に帰ろうとしていたと書いている。ところが、アルプスを目の前にしながら、一行は再び南へ引き返した。豊かなイタリアに残って略奪を続けたいと望む者が多かったからだとも、ローマそのものを攻めようとしたからだとも言われる。史料はすべてローマの側が書いたもので、スパルタクス自身の言葉は一つも残っていない。

ローマの元老院は、執政官に代えて、法務官のクラッススに鎮圧を任せた。クラッススはローマ一の富豪として知られた人物である。クラッススは、敵を前に逃げ出した部隊に、10人に1人をくじで選んで仲間に打ち殺させる「十分の一刑」を科し、軍の規律を立て直したとプルタルコスは伝えている。
スパルタクスはイタリアの南端まで進み、海賊と取り引きして、船でシチリアへ渡ろうとした。シチリアでは、かつて二度にわたって大きな奴隷の反乱が起きていた。だが、海賊は金を受け取りながら約束を破り、船は来なかった。クラッススは、イタリアの爪先の半島を横切る長い堀と土塁を築いて、一行を閉じ込めようとした。スパルタクスはその一角を破って脱出したが、軍の中では仲間割れも起きていた。

紀元前71年、南イタリアのルカニアで最後の決戦が行われた。スパルタクスは、戦いの前に自分の馬を殺し、勝てば敵の馬がいくらでも手に入り、負ければ馬は要らない、と言ったとプルタルコスは書いている。スパルタクスは、クラッススのもとへ斬り込もうとして奮戦し、討ち死にした。その遺体は見つからなかった。
戦場から逃れた5000人ほどは、スペインから戻ってきたポンペイウスの軍に捕らえられて殺された。ポンペイウスは、反乱を根から絶ったのは自分だと元老院に書き送り、クラッススの手柄を横取りする形になった。2人の間のわだかまりは、のちの政治にも影を落とした。それでも10年あまり後、2人はカエサルを加えて手を結ぶことになる(第一回三頭政治)。

捕虜となった約6000人は、カプアからローマへと続くアッピア街道に沿って、十字架にかけられた。200キロほどの道の両側に、十字架が並んだことになる。反乱を起こした奴隷への見せしめだった。
スパルタクスの反乱は、ローマ最後の大規模な奴隷の反乱となった。その名は後の時代にも生き続けた。19世紀にはカール・マルクスが古代の偉大な人物としてたたえ、20世紀には、ドイツの革命家たちが「スパルタクス団」を名乗った。1960年には、スタンリー・キューブリック監督の映画にもなっている。