カラカラ浴場
概要
1600人が同時に入れた。図書館、運動場、庭園。皇帝は弟を母の腕の中で殺した人で、浴場は民衆への贈り物だった。廃墟はいまオペラの野外劇場になる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
ローマの人々にとって、公衆浴場は体を洗うだけの場所ではなかった。湯に浸かり、汗を流し、運動をし、友人と語らい、商談をし、本を読む。昼過ぎに仕事を終えると浴場へ行くのが、都市に住むローマ人の日課だった。皇帝たちは競うように大きな浴場を建てて市民に開いた。浴場は、パンと見世物と並んで、皇帝が民の心をつかむための贈り物だった。紀元前312年に最初の水道が引かれて以来(ローマの水道)、ローマにはいくつもの水道が山の水を運び込み、それが浴場を支えていた。
カラカラはあだ名で、本名をマルクス・アウレリウス・アントニヌスといった。セプティミウス・セウェルスの長男で、ガリアの民族衣装の長い外套を好んで着たことから、その外套の名で呼ばれた。父は死に際に、カラカラと弟のゲタに、兄弟仲良くするようにと言い残したが、二人は激しく憎み合った。211年に父が死んで兄弟が共同で帝位を継ぐと、その年の暮れ、カラカラは母ユリア・ドムナのもとに弟を呼び出し、母の腕の中に逃げ込んだゲタを兵士に殺させた。ゲタの名は碑文から削られ、その仲間とされた者たちが大勢殺された。翌212年には、帝国のほぼすべての自由民にローマ市民権を与える勅令を出している(アントニヌス勅令)。

浴場の工事は、212年ごろ、ローマの南の城門に近い、アッピア街道沿いの土地で始まった。216年に開かれたが、周りを囲む建物や庭園は、その後の皇帝たちのもとで仕上げられた。敷地は塀に囲まれた一辺300メートルを超える区画で、広さはおよそ11ヘクタール。その中央に、長さ214メートル、幅110メートルの浴場の建物がそびえた。一度に1600人ほどが入れたと推定され、一日に数千人が訪れたとみられている。
浴場の中は、決まった順路に沿って並んでいた。入口で服を脱ぎ、屋根のない運動場で体を動かしたあと、熱い蒸気の部屋で汗を流し、高温の湯の部屋(カルダリウム)、ぬるい湯の部屋(テピダリウム)を経て、最後に大きな冷水のプール(フリギダリウム)や屋外の泳ぐためのプールに入る。カルダリウムは直径35メートルほどの円形の大広間で、丸い屋根で覆われていた。床と壁の下には熱い空気を通す仕掛けがあり、地下では奴隷たちが炉に薪をくべ続けた。地下には、荷車が通れるほどの通路が縦横に走り、薪や物資を運んだ。水は、近くの水道から新しく引いた支線で運ばれた。

建物は、贅を尽くして飾られていた。壁は色とりどりの大理石で覆われ、床には運動選手の姿などを描いたモザイクが敷かれ、あちこちに巨大な彫像が置かれた。敷地にはギリシア語とラテン語の図書館があり、庭園と店があった。16世紀にファルネーゼ家が浴場の跡を掘ったとき、高さ3メートルを超えるヘラクレスの像や、牡牛に縛りつけられる女を表した大きな群像が掘り出された。「ファルネーゼのヘラクレス」「ファルネーゼの牡牛」と呼ばれるこれらの像は、いまナポリの国立考古学博物館にある。
浴場を開いた翌年の217年、カラカラはパルティアへの遠征の途中、メソポタミアのカルラエの近くで、用を足しに馬を降りたところを、自分の護衛の兵に刺されて殺された。近衛長官マクリヌスの差し金だった。29歳。治世は短く、残酷さで知られたが、その名は、ローマで最も壮大な浴場の名として残った。

浴場は、皇帝が代わっても3世紀にわたって使われ続けた。だが、ベリサリウスが取り戻したばかりのローマを(ベリサリウスのローマ奪還)、537年に東ゴートの王ウィティギスが囲んだとき、ゴート人は町に水を送る水道を断ち切った。水の止まった浴場は、二度と湯をたたえることはなかった。中世のあいだ、巨大な廃墟は石材を取る場所になり、大理石は持ち去られ、焼かれて石灰にされた。19世紀のはじめ、イギリスの詩人シェリーは、草木に覆われたこの廃墟の上で、劇詩『鎖を解かれたプロメテウス』の多くを書いたと序文に記している。
廃墟は、いまも新しい役目を果たしている。1937年から、夏の夜には浴場の跡でオペラが上演されるようになり、ヴェルディの『アイーダ』などが古代の壁を背景に演じられてきた。1990年、サッカーのワールドカップのイタリア大会の決勝の前夜には、パヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスの「三大テノール」が初めてそろって、この廃墟で歌った。遠くアメリカでも、カラカラ浴場は手本にされた。1910年にニューヨークに完成したペンシルヴェニア駅の大待合室は、この浴場の大広間を写して作られた。駅舎は1963年に取り壊され、その喪失がニューヨークで歴史的な建物を守る運動を生むきっかけになった。