できごと

カラカラ浴場

Baths of Caracalla
AD216年
重要度 3
ローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民パルティアサーミメロエヒムヤル王国アクスム王国アルメニアハドラマウトブレンミュエスBoihaenumAD216年ローマ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD216年の版図を描いています(11勢力)。

概要

1600人が同時に入れた。図書館、運動場、庭園。皇帝は弟を母の腕の中で殺した人で、浴場は民衆への贈り物だった。廃墟はいまオペラの野外劇場になる。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

本文

ローマの人々にとって、公衆浴場は体を洗うだけの場所ではなかった。湯に浸かり、汗を流し、運動をし、友人と語らい、商談をし、本を読む。昼過ぎに仕事を終えると浴場へ行くのが、都市に住むローマ人の日課だった。皇帝たちは競うように大きな浴場を建てて市民に開いた。浴場は、パンと見世物と並んで、皇帝が民の心をつかむための贈り物だった。紀元前312年に最初の水道が引かれて以来(ローマの水道)、ローマにはいくつもの水道が山の水を運び込み、それが浴場を支えていた。

カラカラはあだ名で、本名をマルクス・アウレリウス・アントニヌスといった。セプティミウス・セウェルスの長男で、ガリアの民族衣装の長い外套を好んで着たことから、その外套の名で呼ばれた。父は死に際に、カラカラと弟のゲタに、兄弟仲良くするようにと言い残したが、二人は激しく憎み合った。211年に父が死んで兄弟が共同で帝位を継ぐと、その年の暮れ、カラカラは母ユリア・ドムナのもとに弟を呼び出し、母の腕の中に逃げ込んだゲタを兵士に殺させた。ゲタの名は碑文から削られ、その仲間とされた者たちが大勢殺された。翌212年には、帝国のほぼすべての自由民にローマ市民権を与える勅令を出している(アントニヌス勅令)。

アントニヌス勅令に関わる図版:Gießen, MS Papyrus Gissensis 40 Constitutio Antoniniana crop
アントニヌス勅令Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

浴場の工事は、212年ごろ、ローマの南の城門に近い、アッピア街道沿いの土地で始まった。216年に開かれたが、周りを囲む建物や庭園は、その後の皇帝たちのもとで仕上げられた。敷地は塀に囲まれた一辺300メートルを超える区画で、広さはおよそ11ヘクタール。その中央に、長さ214メートル、幅110メートルの浴場の建物がそびえた。一度に1600人ほどが入れたと推定され、一日に数千人が訪れたとみられている。

浴場の中は、決まった順路に沿って並んでいた。入口で服を脱ぎ、屋根のない運動場で体を動かしたあと、熱い蒸気の部屋で汗を流し、高温の湯の部屋(カルダリウム)、ぬるい湯の部屋(テピダリウム)を経て、最後に大きな冷水のプール(フリギダリウム)や屋外の泳ぐためのプールに入る。カルダリウムは直径35メートルほどの円形の大広間で、丸い屋根で覆われていた。床と壁の下には熱い空気を通す仕掛けがあり、地下では奴隷たちが炉に薪をくべ続けた。地下には、荷車が通れるほどの通路が縦横に走り、薪や物資を運んだ。水は、近くの水道から新しく引いた支線で運ばれた。

古代ローマの都市計画図
古代ローマの都市計画図Wikimedia Commons Unknown author Unknown author (H. Jordan ?) · Public domain

建物は、贅を尽くして飾られていた。壁は色とりどりの大理石で覆われ、床には運動選手の姿などを描いたモザイクが敷かれ、あちこちに巨大な彫像が置かれた。敷地にはギリシア語とラテン語の図書館があり、庭園と店があった。16世紀にファルネーゼ家が浴場の跡を掘ったとき、高さ3メートルを超えるヘラクレスの像や、牡牛に縛りつけられる女を表した大きな群像が掘り出された。「ファルネーゼのヘラクレス」「ファルネーゼの牡牛」と呼ばれるこれらの像は、いまナポリの国立考古学博物館にある。

浴場を開いた翌年の217年、カラカラはパルティアへの遠征の途中、メソポタミアのカルラエの近くで、用を足しに馬を降りたところを、自分の護衛の兵に刺されて殺された。近衛長官マクリヌスの差し金だった。29歳。治世は短く、残酷さで知られたが、その名は、ローマで最も壮大な浴場の名として残った。

当時のカラカラ浴場の内部の想像図
当時のカラカラ浴場の内部の想像図Wikimedia Commons Public domain

浴場は、皇帝が代わっても3世紀にわたって使われ続けた。だが、ベリサリウスが取り戻したばかりのローマを(ベリサリウスのローマ奪還)、537年に東ゴートの王ウィティギスが囲んだとき、ゴート人は町に水を送る水道を断ち切った。水の止まった浴場は、二度と湯をたたえることはなかった。中世のあいだ、巨大な廃墟は石材を取る場所になり、大理石は持ち去られ、焼かれて石灰にされた。19世紀のはじめ、イギリスの詩人シェリーは、草木に覆われたこの廃墟の上で、劇詩『鎖を解かれたプロメテウス』の多くを書いたと序文に記している。

廃墟は、いまも新しい役目を果たしている。1937年から、夏の夜には浴場の跡でオペラが上演されるようになり、ヴェルディの『アイーダ』などが古代の壁を背景に演じられてきた。1990年、サッカーのワールドカップのイタリア大会の決勝の前夜には、パヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスの「三大テノール」が初めてそろって、この廃墟で歌った。遠くアメリカでも、カラカラ浴場は手本にされた。1910年にニューヨークに完成したペンシルヴェニア駅の大待合室は、この浴場の大広間を写して作られた。駅舎は1963年に取り壊され、その喪失がニューヨークで歴史的な建物を守る運動を生むきっかけになった。

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