できごと

トティラのローマ占領

Totila takes Rome
AD546年12月17日
重要度 3
フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシア東ローマ帝国サーミ西ゴート王国フランク王国アクスム王国ヒムヤル王国マクリアガーナ王国サクソン人ブルグント族SvevesAnglo-Saxonsテューリンゲン族ブレンミュエス西ローマ帝国BasksAD546年12月17日ローマ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD546年12月17日の版図を描いています(18勢力)。

概要

東ゴート戦争の11年目。トティラが1年囲んだローマに、イサウリア人の兵が門を開けた。市民は500人しか残っていなかった。壁を壊し、元老院議員を連れ去った。ローマが40日無人になった。ベリサリウスが翌年戻したが、ローマは二度と大都市に戻らなかった。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(2)

トティラ?–AD552年7月 · 王ベリサリウスAD500年頃–AD565年 · 奪い返した

本文

6世紀の半ば、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、失われた西の領土を取り戻そうとしていた(ユスティニアヌスの再征服)。イタリアは、テオドリック以来、ゴート人の王が治めていた(テオドリックのイタリア王国)。535年、将軍ベリサリウスがシチリアに渡り、翌年ナポリとローマを取った(ベリサリウスのローマ奪還)。ゴート王ヴィティゲスは1年にわたってローマを囲んだが落とせず、540年にはベリサリウスが都ラヴェンナに入ってヴィティゲスを捕えた。戦争は終わったかに見えた。

ところが、ベリサリウスがペルシアとの戦いのために呼び戻されると、イタリアに残った帝国の将軍たちは互いに張り合い、重い税の取り立てで住民の心を失った。541年、ゴート人は若いトティラを王に立てる。トティラは小さな兵力から巻き返し、542年にはファエンツァとムケッリウムで帝国軍を破り、543年にはナポリを降した。彼は大地主の土地を耕す小作人や奴隷を味方に引き入れ、兵にも加えたとされる。

トティラの肖像(フランチェスコ・サルヴィアーティ画、1549年頃)
トティラの肖像(フランチェスコ・サルヴィアーティ画、1549年頃)Wikimedia Commons Francesco Salviati · Public domain

544年、ベリサリウスがイタリアに戻された。しかし皇帝は十分な兵も金も与えなかった。ペルシアとの戦争に加え、542年からは疫病が帝国じゅうを襲っていた。ベリサリウスは、兵も資金も無いと皇帝に訴える手紙を送るばかりだった。545年、トティラはローマを囲んだ。

ローマの守将ベッサスは、蓄えた穀物を法外な値で売って私腹を肥やしたと伝えられる。市民は、イラクサを煮て食べ、草の根まで探した。教皇はシチリアから穀物の船を送らせたが、テヴェレ川の河口でゴート人に奪われた。ベリサリウスは船で川をさかのぼり、ゴート人が川に張った鎖と防塞を破りかけたが、城内の兵が呼応して打って出ず、救援は失敗した。市民の多くは、許されて町を去るか、逃げるか、飢えて死んだ。

6世紀のローマ城壁と門。トティラらは南東のアシナリア門から入城した
6世紀のローマ城壁と門。トティラらは南東のアシナリア門から入城したWikimedia Commons Edward Stanford · Public domain

546年12月17日の夜、東のアシナリア門を守っていたイサウリア人の兵4人が、綱をつたって城壁を下り、ゴート人を中へ引き入れた。帝国の兵は反対側の門から逃げた。歴史家プロコピオスによれば、町に残っていた市民は500人ほどにすぎなかった。夜明けにトティラは聖ペテロの教会に参り、助祭ペラギウスが福音書を手にして命乞いをすると、それ以上人を殺すことを兵に禁じた。ローマの女性たちを辱めることも許さなかった、とプロコピオスは書いている。

トティラは、ローマの城壁の3分の1ほどを壊させた。町を焼いて牛や羊の放牧地にするとまで言ったと伝えられる。それを聞いたベリサリウスは、手紙を書いた。ローマは、人の手が作った町の中でいちばん大きく、いちばん見事な町である。それを壊せば、あなたは町を滅ぼした者として後の世まで記憶されるだろう、と。トティラはこの手紙を何度も読み返し、町を壊すことを思いとどまったという。

トティラがローマに入城したアシナリア門
トティラがローマに入城したアシナリア門Wikimedia Commons user:Lalupa · Public domain

それでもトティラは、元老院の議員たちを人質として連れ去り、残った市民も周りの土地へ移した。プロコピオスの記述によれば、そのあとローマにはひとりの人も残らなかった。一説に、40日ほど町は無人だったとされる。千年にわたって世界の中心だった町が、生きた人のいない廃墟になった。

547年の春、ベリサリウスはローマに戻り、壊れた城壁を石を積み上げて急いでふさぎ、ゴート人の攻撃を退けた。しかし、それ以上の力は無く、549年には本国へ呼び戻された。その年、トティラは再びローマを囲み、またしてもイサウリア人の兵が門を開けた。今度のトティラは町を壊さず、人を呼び戻し、大競技場で戦車の競走を催した。かつてのローマ皇帝のようにふるまうことで、自分こそイタリアの正統な支配者だと示そうとしたのだった。

ベリサリウスのモザイク画
ベリサリウスWikimedia Commons Meister von San Vitale in Ravenna · Public domain

皇帝は、こんどは老いた宦官の将軍ナルセスに大軍を与えた。552年、アペニン山中のタギナエ(ブスタ・ガロルム)の戦いでゴート軍は破れ、トティラは逃れる途中で傷を負って死んだ。翌553年、最後の王テイアもナポリの近くのラクタリウス山で倒れ、東ゴート王国は終わる。

20年近くに及んだ戦争で、イタリアは荒れ果てた。ローマの水道は包囲の中で断たれ、町の人口は古代の盛期の何十分の一かに落ちたと考えられている。元老院もやがて記録から姿を消す。疲れ切ったイタリアに、568年、北からランゴバルド人が入ってきた(ランゴバルドのイタリア侵入)。帝国が取り戻したはずのイタリアは、また割れていった。ローマを最も深く傷つけたのは、ローマを取り戻そうとしたローマ帝国自身の戦争だった、とも言われる。敵の側に立っていたプロコピオスは、トティラが降った敵にも寛大で、約束を守る王だったことを書き残している。

同じ時代のできごと

『文選』AD530年頃梁の武帝の捨身AD527年磐井の乱AD527年ベネディクトの戒律AD529年頃アテナイのアカデメイア閉鎖AD529年ホスロー1世の改革AD531年ニカの乱AD532年1月13日ユスティニアヌスの再征服533年
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