護民官の設置
概要
平民が兵役を拒んで聖山に立てこもり、貴族が譲った。平民の身を守る役人が置かれ、その体は不可侵とされ、あらゆる決定に拒否権を持った。共和政の中の、平民の側の柱になる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
紀元前509年に王を追い出して(タルクィニウスの追放(王政の廃止))から十数年、ローマの共和政は、まだ貴族(パトリキ)だけのものだった。毎年選ばれる二人の執政官も、神官も、元老院の議員も、古い家柄の貴族が独り占めしていた。平民(プレブス)は数のうえでは圧倒的に多く、兵として戦場に立つのも彼らだった。しかし政治に口を出す道はほとんどなかった。
平民を最も苦しめたのは借金である。ローマは周りのウォルスキ人やアエクイ人と毎年のように戦い、農民は兵役に取られて畑を空けた。帰ってみれば作物は荒れ、敵に焼かれていることもある。種を買うために貴族から借り、返せなければ、身を担保にした契約によって債権者に縛られ、鎖につながれて働かされた。歴史家リウィウスは、戦場で傷を負った老兵が、借金のために家を失い、鞭打たれた背中を広場で人びとに見せて訴える場面を書いている。
伝承によれば紀元前494年、敵が攻めてくるという知らせのなかで、平民の兵士たちは戦うことを拒み、都の外の聖山(モンス・サケル)に引きこもった。武器を持ったまま、ただ動かない。いわば兵士の総同盟罷業で、これを「平民の離反(セケッシオ)」と呼ぶ。立てこもった場所をアウェンティヌスの丘とする伝えもある。
兵がいなければローマは守れない。元老院は、平民の出で人望のあったメネニウス・アグリッパを使者に送った。リウィウスによれば、彼は一つのたとえ話をした。昔、体の手足が、自分たちばかり働いて胃は何もせず食べるだけだと怒り、食べ物を運ぶのをやめた。すると胃だけでなく、手足もやせ衰えてしまった。胃もまた体全体を養っていたのだ、と。平民はこの話に心を動かされ、和解に応じたとされる。
和解の条件として置かれたのが、護民官である。平民だけが平民の集会で選び、平民だけがなれる。はじめは二人、のちに十人になった。護民官の体は神聖で侵してはならず、危害を加えた者は神に呪われた者として、誰に殺されても罪にならないと平民たちは誓い合った。護民官は、政務官に連れ去られそうな平民のもとへ駆けつけて身をかばうことができ、そのために夜も家の戸を閉ざしてはならず、一晩たりとも都を離れてはならなかった。やがてその力は、政務官の命令や元老院の決議に「私は禁じる(ウェト)」と言って止める拒否の権限へと広がる。英語の「拒否権」の語源である。
ただし、この話はずっと後の時代に書かれたもので、年代も場面も作られた部分が多いと考えられている。それでも、平民が兵役を拒むことで譲歩を勝ち取ったという筋は、その後も繰り返された。法を書いて示せという平民の要求は紀元前450年ごろの十二表法を生み、その直後の紀元前449年にも離反が起きた。紀元前367年には執政官の一人を平民から選ぶ道が開かれ、紀元前287年の離反のあと、平民会の決議が全ローマ人を縛る法になった。貴族と平民の身分の争いは、およそ200年かけて終わる。
護民官は、ローマの政治の中で最も扱いの難しい役職になった。平民の味方であるはずのこの職を、名門の野心家が人気取りの足がかりに使うようになったからである。紀元前133年、護民官ティベリウス・グラックスは土地を貧しい市民に分け与える法を通そうとし、元老院議員たちに撲殺された(ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺)。弟のガイウスも同じ道をたどる(ガイウス・グラックスの改革と死)。独裁者スッラは護民官の権限を大きく削ったが(スッラの独裁)、10年ほどで元に戻された。紀元前49年、カエサルがルビコン川を渡ったときの名目の一つは、元老院に追われた護民官を守ることだった。
最後に護民官の力を手に入れたのはアウグストゥスである。彼は護民官に就任することなく、その権限だけを終身で受け取り、治世の年をその権限を得てからの年数で数えた。身の不可侵と拒否の力は、皇帝の権力を支える柱の一つになった。平民を守るために生まれた役職は、500年近くたって、一人の支配者を守る盾に変わっていた。