ヌマ・ポンピリウス
概要
ロムルスの死後、サビニ人の賢者が王に選ばれた。暦、神官、巫女、ヤヌスの門、境界の神。ローマの宗教をすべて作ったと伝わる。43年、戦争をせず、ヤヌスの門は閉じたままだった。実在は疑わしいが、ローマ人はこの王を信じた。
所属
ローマ関わったできごと(1)
ヌマの暦と祭祀BC715年(伝承) · 王本文
ヌマ・ポンピリウスは、ローマの伝説の第2代の王である。ローマの歴史家リウィウスやギリシア人のプルタルコスが詳しい物語を残しているが、書かれたのはヌマの時代とされる頃から700年ほども後のことで、実在したかどうかは分からない。伝承によれば、紀元前753年、まさにローマが建てられた年に生まれ、紀元前715年から673年まで43年間王位にあった(ローマの建国)。

ヌマは、ローマの北東のサビニ人の町クレスの出身だった。ローマを建てたロムルスは、サビニ人の女たちを奪ったことをきっかけにサビニ人と戦い、やがて和を結んで二つの民を一つの国にまとめていた。ロムルスが嵐の中で姿を消したあと、ローマには1年の間、王がいなかった。元老院の議員たちが交代で国を預かったが、もとからのローマ人とサビニ人が、どちらから王を出すかで争ったのである。最後に選ばれたのが、サビニ人でありながら、その正しさと学識でローマ人にも尊敬されていたヌマだった。
プルタルコスによれば、ヌマは初め王位を断った。戦いによって大きくなった国には、戦いの王がふさわしい。自分は静かな暮らしと神々への奉仕を好み、戦争には向かない、と。だが父や親族に説得されて、ローマへ向かった。リウィウスは、ヌマが即位にあたって鳥占いで神々の意思を問うたと書く。カピトリウムの丘で、占い師が南を向いて座るヌマの頭に手を置き、ユピテルに、この者が王となるのが神意であれば確かなしるしを示したまえ、と祈ると、定めた方角に吉兆の鳥が現れた。のちのローマで、役職に就く者が鳥占いで神意を確かめる習わしは、ここに始まるとされる。

ロムルスが戦いの王なら、ヌマは祭りと法の王だった。戦いに慣れた荒々しい民を、神々への恐れと敬いで穏やかにしようとした、とリウィウスは書く。ヌマは、夜ごとに都の外の森の泉で女神エゲリアと会い、教えを受けていると人びとに語った。宗教の決まりごとは、王の考えではなく女神から授かったものとして示された。
伝承は、ローマの宗教の制度のほとんどをヌマに帰している(ヌマの暦と祭祀)。ユピテル、マルス、クィリヌスにそれぞれ仕える神官を置き、祭祀の全体を監督する大神祇官を定めた。都の聖なる火を絶やさず守るウェスタの火の巫女たちを置いたのもヌマとされる。ある日天から一枚の盾が降ってきたとき、ヌマはそれが盗まれないように、そっくりの盾を11枚作らせ、それを捧げ持って踊る神官団サリイに守らせた。1年を月の満ち欠けに合わせて12か月に分け、ロムルスの暦に無かった1月と2月を加えたのもヌマだという。祭りを行ってよい日と悪い日を定め、陶工や大工などの職人を職ごとの組合にまとめた。
ヌマはまた、土地の境界を守る神テルミヌスの祭りを定め、境の石を動かすことを罪とした。そして、ヤヌス神の門を閉じた。ローマでは、この神殿の門は戦争の間は開かれ、平和なときにだけ閉じられる。ヌマの43年の治世の間、門は一度も開かれなかったと伝えられる。次にこの門が閉じられたのは、500年近くのちの第一次ポエニ戦争の後で、その次はアウグストゥスの時代だった。
ヌマは80歳を過ぎて、病で静かに世を去ったという。遺言により、彼が書いた宗教の書物は、遺体とは別の石棺に納めて葬られた。リウィウスによれば、それから約500年後の紀元前181年、ローマの郊外のヤニクルムの丘で、ヌマの名を刻んだ二つの石棺が見つかった。遺体の棺は空で、もう一つには書物が入っていた。中身を読んだ法務官は、それが今のローマの宗教を損なう内容だと判断し、元老院の決定によって書物は焼かれた。
ローマには、ヌマがギリシアの哲学者ピュタゴラスの弟子だったという言い伝えもあった。ヌマの宗教が、像を作らない祈りや動物を殺さない供物など、ピュタゴラス派の教えに似ていると考えられたからである。だが、キケロもリウィウスも、ピュタゴラスがイタリアに来たのはヌマより100年以上も後のことで、年代が合わないと退けた。それでも、自分たちの古い宗教の起源をギリシアの賢者と結びつけたいという思いは、ローマ人の中に根強かった。
近代の研究者の多くは、ローマの宗教の制度が、何百年もかけて少しずつ形づくられたものだと考えている。伝説はそれを一人の賢い王の業績にまとめ上げた。王政時代のローマに王がいたこと自体は確かで、ヌマの名も古い伝承の中にあったのかもしれない。だがその姿は、戦いのロムルスと対になるように、のちの時代に磨き上げられたものだろう。ローマ人にとってヌマは、戦争で大きくなった国が、それでも神々と法によって支えられていることを示す、もう一人の建国者だった。王政は紀元前509年、7代目のタルクィニウスの追放で終わる(タルクィニウスの追放(王政の廃止))。