できごと

ユグルタ戦争

Jugurthine War
BC112年
重要度 3
サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民スキタイ西アフリカの穀作農民パルティアアラブ系の人びとプトレマイオス朝ローマ小国群ガリア諸部族ノルマン人メロエケルト系の人びとヌミディアPlain-Pottery cultureセレウコス朝シュファクスの王国(マサエシュリ)Brushed Pottery cultureマウレタニアカタバーンBell-shaped burials cultureMaanナバテア王国Milograd cultureEastern Masurian cultureポントス王国ボスポロス王国ブレンミュエスガラの王国(マッシュリ)サバア王国Pomeranian cultureBC112年キルタ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC112年の版図を描いています(31勢力)。

概要

ヌミディアの王が元老院議員を買収して戦争を長引かせた。「売り物の街だ」と言ったと伝わる。マリウスがこの戦争で名を上げる。

場所

キルタ
36.37°N 6.61°E · アルジェリア・コンスタンティーヌ

本文

北アフリカのヌミディア(いまのアルジェリア北部の辺り)は、騎兵の強さで知られた国だった(ヌミディア)。ローマがカルタゴと戦った時代、ヌミディアの王マシニッサはローマの側について大きな働きをし、以後この国はローマの忠実な同盟国になった。紀元前146年にカルタゴが滅ぼされると(カルタゴ滅亡)、ヌミディアはローマの属州アフリカの隣で、半ば独立した王国として続いた。

マシニッサの子ミキプサ王は、紀元前118年に亡くなるとき、王国を自分の二人の息子アドヘルバルとヒエンプサル、そして甥で養子にしたユグルタの三人に分けて残した。ユグルタは庶出の生まれだったが、体が強く、乗馬と狩りに優れ、人望があった。若いころ、ローマの将軍スキピオ・アエミリアヌスのもとでスペインの戦いに加わり、ローマの貴族たちと親しくなって、ローマでは金で何でも買える、という印象を持ち帰ったとも伝えられる。

ローテルトの歴史地図。キンブリ戦争とユグルタ戦争(前113-101年)の範囲を示す
ローテルトの歴史地図。キンブリ戦争とユグルタ戦争(前113-101年)の範囲を示すWikimedia Commons Eduard Rothert · Public domain

王の死後まもなく、ユグルタはヒエンプサルを暗殺し、アドヘルバルを戦いで破った。アドヘルバルはローマに逃げて元老院に訴えた。元老院は調停のための使節団を送ったが、ユグルタは使節たちに贈り物をばらまき、王国は二人で分けることになった。豊かな西半分を得たのはユグルタだった。

紀元前113年ごろ、ユグルタは再びアドヘルバルを攻め、都キルタ(いまのコンスタンティーヌ)を包囲した。町の防衛には、そこに住んで商売をしていたイタリア人の商人たちも加わった。ローマは使節を送って戦いをやめるよう求めたが、ユグルタは取り合わなかった。紀元前112年、包囲に耐えきれなくなった町は、命を保証するという約束で降伏した。ところがユグルタは、アドヘルバルを拷問の末に殺し、武器を持って抵抗した者として、町にいたイタリア人の商人たちまで皆殺しにした。

硬貨に刻まれたミキプサ
硬貨に刻まれたミキプサWikimedia Commons Bibliothèque nationale de France, département Monnaies, médailles et antiques, Luynes 3958 · CC0

ローマの市民、とりわけ商人や騎士身分の人々は激怒し、元老院もついに宣戦を決めた。紀元前111年、執政官カルプルニウス・ベスティアがアフリカに渡ったが、まもなく、ユグルタにとって驚くほど有利な条件で講和を結んでしまった。賄賂を受け取ったのではないかという疑いが、ローマで噴き出した。護民官メンミウスは、元老院の腐敗を厳しく攻撃し、ユグルタをローマに呼び出して、誰から金を受け取ったのかを民会で証言させようとした。ところが、証言の場で別の護民官が拒否権を使い、ユグルタに口を開かせなかった。この護民官も買収されていたと考えられている。

ユグルタはローマ滞在中、王位を争うおそれのある親族のマッシウァを暗殺させた。さすがに国外退去を命じられ、ローマの城門を出るとき、何度も振り返ってこう言ったと伝えられる。売りに出された都よ、買い手さえ見つかれば、たちまち滅びるだろうに、と。この言葉は、歴史家サルスティウスの『ユグルタ戦記』に記されている。

捕らえられたユグルタ
捕らえられたユグルタWikimedia Commons Joachin Ibarra, scanned by Shlavozensky · Public domain

戦いは再び始まったが、ローマ軍は苦戦が続いた。紀元前110年から109年にかけて、ある指揮官の軍はユグルタに奇襲されて大敗し、兵たちは降伏の印に槍で作った門の下をくぐらされるという屈辱を受けた。その後、名門出身の執政官メテッルスが軍の規律を立て直し、戦況を少しずつ有利にしたが、砂漠と山地を自在に動くユグルタを捕らえることはできなかった。

ここで頭角を現したのが、メテッルスの副官だったマリウスである。イタリアの地方の騎士身分の出で、先祖に高官を出したことのない「新人」だった。マリウスは、貴族たちが戦争を長引かせていると訴えてローマに戻り、紀元前107年の執政官に当選した。民会は、元老院の決定を覆して、マリウスにアフリカの指揮権を与えた。マリウスは兵を集めるにあたって、財産を持たない市民にも志願を認めた(マリウスの軍制改革)。これはのちに、将軍個人に忠誠を誓う兵士の軍を生み、共和政を揺るがすことになる。

マリウスの軍制改革に関わる図版:RRC 326.1 Gaius Fundanius depicting Gaius Marius triumphator
マリウスの軍制改革Wikimedia Commons American Numismatic Society · Public domain

ユグルタを最後に捕らえたのは、武力ではなく裏切りだった。マリウスの下で財務官を務めていた若い貴族スッラが、ユグルタの舅であるマウレタニアの王ボックスのもとへ乗り込み、ローマにつくよう説き伏せた。紀元前105年、ボックスは会見の場にユグルタをおびき出して捕らえ、スッラに引き渡した。紀元前104年の正月、ユグルタはマリウスの凱旋式で鎖につながれて引き回され、そのあと地下牢に入れられて餓死した。

戦争は終わったが、二つの火種が残った。一つは、ローマの支配層の腐敗が誰の目にも明らかになり、元老院と民衆派の対立がいっそう深まったこと。もう一つは、ユグルタを捕らえた手柄を、マリウスとスッラが互いに自分のものだと考えたことである。スッラは、ボックスがユグルタを引き渡す場面を彫らせた指輪を生涯はめていたという。この二人の争いは、やがてローマを内戦に引きずり込む(スッラの独裁)。ユグルタが捕まった同じ年、北からはゲルマン系の人々がガリアに侵入し、ローマ軍は大敗していた(アラウシオの戦い)。マリウスはその脅威に立ち向かうため、異例の連続の執政官に選ばれていく。

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