アエティウス
概要
若い頃フン人の人質だった。フン人の兵でガリアを守り、ブルグント族を潰し、西ゴートと組んで、カタラウヌムでアッティラを止めた。「最後のローマ人」。皇帝ウァレンティニアヌス3世が自分の手で剣で刺した。翌年、皇帝もアエティウスの部下に殺された。
関わったできごと(1)
カタラウヌムの戦いAD451年 · ローマの将軍本文
フラウィウス・アエティウスは、391年頃、ドナウ川下流のドゥロストルム(いまのブルガリアのシリストラ)で生まれた。父ガウデンティウスは西ローマ軍の騎兵の司令官で、母はイタリアの名家の出だったという。

少年時代のアエティウスは、ローマが異民族との約束の証として差し出す人質になった。初めは西ゴートの王アラリックのもとに3年ほど、次いでドナウの北のフン人の王のもとで暮らした。この経験で、彼はフン人の言葉や戦い方を知り、彼らの有力者と個人的なつながりを持った。それがのちの彼の力の源になった。
423年、西ローマ皇帝ホノリウスが死に、ヨハンネスという役人が帝位を奪った。アエティウスはヨハンネスのためにフン人の兵を集めに行き、大軍を連れて戻った。だが着いたとき、ヨハンネスはすでに東ローマの軍に捕らえられて殺されていた。新しい皇帝は幼いウァレンティニアヌス3世で、実権はその母ガッラ・プラキディアが握っていた。アエティウスはフン人の兵に金を払って帰らせる代わりに、ガリアの軍の司令官の地位を得た。
それからの10年は、宮廷での権力争いだった。430年、アエティウスは対立していた軍の総司令官フェリクスを殺させた。ガッラ・プラキディアは、北アフリカを守る将軍ボニファティウスを呼び寄せて対抗させた。432年、二人はイタリアのリミニ近くで戦い、ボニファティウスが勝ったが、その傷がもとで死んだ。アエティウスはフン人のもとへ逃れ、翌433年、その支援を背に戻って総司令官の座を取り戻した。以後20年、彼が西ローマ帝国を実際に動かした。
アエティウスの戦いの舞台はガリアだった。帝国の中に住みついた西ゴート、フランク、ブルグントなどのゲルマン系の人々を、彼は時に戦い、時に同盟を結んで抑えた。436年から437年にかけて、ライン川中流のブルグント王国をフン人の兵に攻めさせて滅ぼした。この悲劇は、のちの英雄叙事詩(『ニーベルンゲンの歌』)の遠い元になったとされる。生き残ったブルグント人は、のちにいまのサヴォワのあたりに移された。ガリアの農民の反乱も鎮めた。一方で、同じ頃、北アフリカはヴァンダル人に奪われ、帝国は最も豊かな穀倉と税の源を失った。

フン人との友好は長く続いた。アエティウスは息子を人質としてフン人の宮廷に送り、のちの王アッティラのもとに書記を派遣したこともある。しかしアッティラは東西ローマの双方から金を絞り取り、451年、大軍を率いてライン川を越え、ガリアに攻め込んだ。
アエティウスは、長年の敵だった西ゴートの王テオドリック1世を説き伏せて味方につけ、フランクやブルグント、アラン人の兵も集めた。両軍はガリア北東部のカタラウヌムの野で激突した(カタラウヌムの戦い)。テオドリックは戦死したが、アッティラは陣に退いた。アエティウスはアッティラを追い詰めなかった。フン人が滅べば西ゴートが強くなりすぎると考えたためとされる。翌452年、アッティラはイタリアに攻め込んで北部の都市を荒らしたが、ローマまでは来ずに引き上げた。453年、アッティラは死んだ(アッティラの死)。

フン人の脅威が消えると、アエティウスの存在は皇帝にとって重荷になった。彼は自分の息子を皇帝の娘と結婚させようとしていた。元老院議員ペトロニウス・マクシムスと宦官ヘラクリウスは、アエティウスが帝位を狙っていると皇帝に吹き込んだ。454年9月21日、ラヴェンナの宮殿で財政の報告をしていたアエティウスに、ウァレンティニアヌス3世が自ら剣を抜いて斬りかかり、ヘラクリウスらとともに殺した。東ローマの歴史家プロコピオスは、ある人が皇帝に、陛下は左手で右手を切り落とされた、と言ったと伝えている。
翌455年3月16日、ローマ郊外で軍事訓練を見ていた皇帝は、アエティウスの部下だった二人の兵士に殺された。帝位に就いたペトロニウス・マクシムスも数か月で殺され、ヴァンダル人がローマを略奪した(ヴァンダルのローマ略奪)。プロコピオスはアエティウスを「最後のローマ人」と呼んだ。フン人の人質として育った男がフン人を止め、彼の死から20年あまりのちに、西ローマ帝国は終わる(西ローマ帝国の滅亡)。