セイヤヌスの失脚
概要
ティベリウスがカプリに引きこもり、近衛長官が9年ローマを持った。皇帝の息子を毒殺し、その妻と通じ、次の皇帝の座を求めた。ティベリウスは長い手紙を元老院で読ませ、最後に「逮捕せよ」。その日に絞殺され、子供も殺され、遺体は3日テヴェレに引きずられた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
初代皇帝アウグストゥスが14年に死ぬと、妻の連れ子のティベリウスが後を継いだ。すでに55歳で、優れた将軍だったが、人づき合いを嫌い、元老院とはぎくしゃくした。その皇帝が誰よりも信頼したのが、近衛長官のルキウス・アエリウス・セイヤヌスである。騎士身分の出で、元老院の家柄ではなかった。
近衛隊は皇帝を守る精鋭で、9つの大隊があった。それまではローマの町なかやその周りに分かれて宿営していたが、セイヤヌスはこれをローマの城壁のすぐ外の一つの大きな兵営に集めた。都の中に、一人の男の号令で動く大軍が置かれたことになる。
23年、ティベリウスの一人息子ドルススが死んだ。病死とされたが、8年後、セイヤヌスの離縁された妻が、セイヤヌスがドルススの妻リウィッラと通じ、二人でドルススに毒を盛ったと告発した、と歴史家タキトゥスは書いている(タキトゥス『年代記』)。息子を失ったティベリウスは政治に疲れ、26年にローマを離れ、翌年からはナポリ湾のカプリ島の別荘にこもって、二度とローマの町に入らなかった。

皇帝がいないローマで、セイヤヌスの力はふくれ上がった。皇帝への手紙も皇帝からの命令も、多くは彼を通った。ティベリウスは彼を「私の労苦の仲間」と呼び、町には皇帝と並んで彼の像が立ち、元老院は彼の誕生日を祝った。セイヤヌスの邪魔になったのは、ティベリウスの甥で人気のあった故ゲルマニクスの家族だった。その妻アグリッピナと上の二人の息子は、セイヤヌスの手の者に密告されて反逆の罪に問われ、流された。反逆の罪で人を訴える告発者がはびこり、元老院の議員たちはおびえて暮らした。
31年、セイヤヌスはティベリウスと並んで執政官になった。皇帝の家に入る結婚も許されたとも伝えられる。皇帝は70歳を過ぎ、跡継ぎの候補は少年ばかりだった。次は自分だ、とセイヤヌスは考えたのかもしれない。

だが、ティベリウスは疑い始めていた。何がきっかけだったかははっきりしない。ゲルマニクスの母で、ティベリウスの義理の妹にあたるアントニアが、セイヤヌスの企みを手紙で知らせた、と後のユダヤ人の歴史家ヨセフスは伝える。皇帝はひそかに、マクロという男を新しい近衛長官に任じた。
10月18日、元老院がアポロン神殿で開かれた。マクロはセイヤヌスに、皇帝の手紙が新しい栄誉を授けると告げ、そのすきに神殿を守る近衛兵を自分の兵と入れ替えた。手紙が読み上げられた。とりとめのない話が長々と続き、セイヤヌスを少し責め、また別の話に移る。最後になって、皇帝はセイヤヌスの近しい者の処罰と、セイヤヌス自身の拘束を求めた。それまで彼に取り入っていた議員たちは、一斉に彼から離れた。

セイヤヌスはその日のうちに牢へ引かれ、絞め殺された。死体は罪人の死体をさらすゲモニアエの階段に投げ出され、3日のあいだ群衆に引きずり回され、テヴェレ川に捨てられた。町じゅうの像が倒された。数十年後、詩人のユウェナリスは、昨日まで彼を拝んでいた群衆が今日は像を溶かして鍋にする、と人の心の移ろいやすさを風刺した。セイヤヌスの子どもたちも殺された。幼い娘は、処女を処刑した例がないとして、刑の前に処刑人に犯された、とタキトゥスは書いている。リウィッラは、母のアントニアのもとに閉じ込められて飢え死にしたとも伝えられる。
セイヤヌスの死で恐怖は終わらなかった。彼に近かった者、近いと疑われた者への裁判と処刑がその後も続き、アグリッピナと息子も、セイヤヌスの死後に飢え死にした。ティベリウスはカプリにこもったまま、37年、ナポリ湾の岬の別荘で死んだ。後を継いだのは、セイヤヌスが滅ぼそうとしたゲルマニクスの家の生き残り、のちのカリグラだった。そのカリグラを41年に刺し殺したのは近衛隊の将校たちで、近衛兵は宮殿に隠れていたクラウディウスを見つけ出して皇帝に担いだ。セイヤヌスが一つの兵営に集めた近衛隊は、やがて皇帝を選び、皇帝を殺す力になっていく。皇帝のそばで権力を握った近衛長官の転落は、皇帝の信頼一つで人が頂点に上り、その信頼一つで消えるローマの帝政の姿を、はっきり見せた。