人物

ヘロデ大王

Herod the Great
BC73年頃 – BC4年(享年69・推定)
ローマ重要度 3

概要

イドマヤ人の家からローマの後ろ盾でユダヤの王になった。エルサレムの神殿を建て直し、カイサリアを築き、マサダを要塞にした。妻と三人の息子を殺し、「ヘロデの豚でいるほうが息子でいるより安全だ」とアウグストゥスに言われた。

所属

ローマ

関わったできごと(1)

ヘロデの神殿BC20年 · 王

本文

ヘロデは紀元前73年ごろ、ユダヤの南に住むイドマヤ人の家に生まれた。イドマヤ人は、マカバイの反乱を経て独立したユダヤのハスモン朝(ハスモン朝の独立)の王たちに征服され、ユダヤ教に改宗させられた民である。ヘロデの家はユダヤ教徒だったが、生粋のユダヤ人ではない「半分のユダヤ人」として、生涯、ユダヤの人々の目には余所者と映った。

ヘロデ大王
ヘロデ大王Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

父アンティパトロスは、ハスモン家の大祭司ヒュルカノス2世に仕えた実力者だった。紀元前63年、ローマのポンペイウスがエルサレムを占領してからは(ポンペイウスのエルサレム占領)、ユダヤはローマの影響下に置かれた。アンティパトロスはローマの内戦でカエサルを助け、その功でローマの市民権を得た。ヘロデは25歳ほどで北部ガリラヤの総督に任じられ、山賊の頭目を捕らえて裁判なしで処刑した。ユダヤの最高法院に呼び出されると、彼は武装した護衛を連れて出頭し、議員たちを威圧したという。

紀元前40年、東方の大国パルティアがシリアとユダヤに攻め込み、ハスモン家のアンティゴノスを王に立てた。ヘロデは家族を砦に逃がし、自分はエジプトを経てローマへ向かった。ローマでは、マルクス・アントニウスとオクタウィアヌスが元老院を動かし、ヘロデを「ユダヤの王」に任じた。ただし、その王国はまだパルティアの手にあった。ヘロデはローマ軍の助けを得て、3年がかりで国を取り戻し、紀元前37年、エルサレムを攻め落とした。アンティゴノスはアントニウスのもとへ送られて首をはねられた。ローマが王を斬首したのは初めてだったと伝えられる。

ヘロデの立場は、ローマの後ろ盾ひとつにかかっていた。彼はアントニウスの側についたが、アントニウスがエジプトのクレオパトラ7世と結んでオクタウィアヌスと争い、アクティウムの海戦で敗れると、たちまち危うくなった。紀元前30年、ヘロデはロドス島でオクタウィアヌスに会い、王冠を外して進み出た。自分はアントニウスに忠実だった、恩人には最後まで尽くした、あなたにも同じように忠実に仕えよう、と。オクタウィアヌス、のちのアウグストゥスはこの率直さを買い、王冠を返したうえ、領土まで加えた。

アクティウムの海戦に関わる図版:Medinaceli Actium reliefs 06
アクティウムの海戦Wikimedia Commons Mark Landon · CC BY 4.0

ヘロデは、古代でも指折りの建築王だった。最大の事業は、エルサレムの神殿の建て直しである(ヘロデの神殿)。神殿の丘を巨大な石の壁で囲んで広げ、壮麗な神殿を建てた。いまエルサレムに残る「嘆きの壁」は、その外壁の一部である。地中海の、港に向かない砂浜の海岸には、海に大量の石とコンクリートを沈めて人工の港を造り、カイサリアと名づけた大きな港町を築いた。死海のほとりの岩山マサダには、断崖の上に宮殿と貯水槽を備えた要塞を築いた(マサダの陥落)。各地に劇場や競技場、皇帝を祀る神殿を建て、町にアウグストゥスの名を付けた。紀元前25年ごろの飢饉の年には、自分の金や銀の食器を溶かしてエジプトから穀物を買い入れ、民に配ったと伝えられる。

だが、ヘロデの宮廷は血にまみれていた。王位の正しさを補うため、彼はハスモン家の王女ミリアムネを妻に迎えたが、その一族を恐れ続けた。若く民に人気のあったミリアムネの弟は、大祭司に任じられた翌年、エリコの宮殿の池で溺れて死んだ。ヘロデの手の者の仕業とされる。ミリアムネの祖父ヒュルカノス2世も、母アレクサンドラも殺された。そして紀元前29年、ヘロデは愛していたミリアムネ自身を、不貞と陰謀の疑いで処刑した。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、王はその後、彼女の名を呼びながら宮殿をさまよい、病に倒れたと書いている。

「ヘロデのエルサレム占領(The taking of Jerusalem by Herod the Great, 36 BC,) ジャン・フーケ, 15世紀後半
「ヘロデのエルサレム占領(The taking of Jerusalem by Herod the Great, 36 BC,) ジャン・フーケ, 15世紀後半Wikimedia Commons Jean Fouquet · Public domain

疑いは、息子たちにも向かった。ミリアムネが産んだ二人の王子は、父への陰謀を企てたとされ、紀元前7年に絞殺された。陰謀を言い立てた長男アンティパトロスも、のちに父の毒殺を企てたとして捕らえられ、ヘロデが死ぬわずか5日前に処刑された。アウグストゥスは、ヘロデの豚でいるほうが、息子でいるより安全だ、と言ったと伝えられる。ユダヤ教の律法を守るヘロデは豚を食べないので殺さない、というしゃれで、ギリシア語では豚と息子の言葉の音が似ている。

晩年のヘロデは、重い病に苦しんだ。ヨセフスは、体の内側が焼けるような熱と腫れ、壊疽と虫に苦しんだと記している。死を前にした王は、ユダヤの名士たちをエリコの競技場に閉じ込め、自分が死んだら全員を殺せと命じたという。そうすれば自分の死のときに国中が泣くからだ、と。この命令は実行されなかった。ヘロデは紀元前4年、エリコで世を去った。王国は三人の息子に分けられ、やがて南部はローマの直轄の属州になった。

ヘロディウムの空撮写真(南西方向より)
ヘロディウムの空撮写真(南西方向より)Wikimedia Commons Asaf T. · Public domain

新約聖書のマタイによる福音書は、イエスの誕生を知って恐れたヘロデが、ベツレヘムの2歳以下の男の子をすべて殺させたと記している。だが、ヘロデの悪行を詳しく書き残したヨセフスにも、ほかの史料にもこの話は無く、史実かどうかは疑問視されている。イエスの誕生が紀元前4年より前とされるのは、この福音書の記述とヘロデの死の年を合わせるためである。

ヘロデの墓は長く見つからなかったが、2007年、イスラエルの考古学者が、エルサレムの南のヘロディオンの丘で、彼の墓とみられる遺構を見つけたと発表した。石棺は粉々に砕かれていた。ヘロデを憎んだ人々が壊したのではないかと考えられているが、墓の主については異論もある。ヘロデは、ローマの力を借りて王となり、壮麗な建物と血塗られた宮廷を残した。その建てた神殿は、彼の死から70年あまり後、ローマ軍によって焼き払われることになる(エルサレム神殿の破壊)。

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