十二表法
概要
慣習法を成文にして公開した。ローマ法の出発点になる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
共和政が始まったばかりのローマでは、法は文字に書かれていなかった。何が罪で、どう裁かれるかは、代々の慣わしとして伝えられ、その知識を握っていたのは貴族(パトリキ)出身の神官や政務官だった。平民(プレブス)は、自分が何によって裁かれるのかを前もって知ることができない。知らないものとは争えない。
紀元前5世紀のはじめ、平民たちは兵役を拒んで町の外へ立ち退き、貴族に譲歩を迫った。その結果、平民を守る護民官の設置が実現したと伝えられる。法を書いて公にせよという要求も、その延長にあった。

ローマの歴史家リウィウスによれば、紀元前454年、法を調べるための使節がギリシアへ送られ、アテナイのソロンの法などを学んで帰ったという。この話がどこまで事実かは疑わしいとする研究者が多い。ただ、イタリア南部にはギリシア人の植民市が多く、ギリシアの成文法の知識がローマに届いていたことは十分にありうる。
紀元前451年、ローマは通常の執政官を置かず、法を作るための十人委員会を選んだ。彼らは10枚の板に法を刻んで公表し、翌年には別の委員会が2枚を加えた。こうしてできた12枚の板が、ローマの広場(フォルム)に掲げられた。板の材料は青銅だったとも、木だったとも言われる。

2度目の委員会は、任期が切れても権力を手放さず、横暴に振る舞ったと伝えられる。委員の一人アッピウス・クラウディウスが平民の娘ウェルギニアを我がものにしようとし、父親が娘の名誉を守るために自ら娘を刺した、という悲劇が語られている。この事件をきっかけに平民が再び立ち退き、委員会は倒された。物語としての脚色が強く、そのまま史実とは言えない。
十二表法の中身は、決して平民に優しいものではなかった。借金を返せない者は、債権者に縛られて連れて行かれ、最後は奴隷として売られることもありえた。複数の債権者がいる場合、債務者の体を切り分けてよい、と読める条文もあり、文字どおりの意味だったのかどうか、古代から議論がある。貴族と平民の結婚を禁じる条文も入っていた。
一方で、訴えられたら法廷に出なければならない、という手続きの規定や、隣家との境界、家畜が他人の畑を荒らしたときの償い、相続、葬儀のやり方など、暮らしの細部にわたる取り決めが並んでいた。夜に盗みに入った者は殺してもよいが、昼の盗人は武器を持って抵抗した場合に限る、といった具合に、場合ごとに分けて書かれているのも特徴である。
決定的だったのは、内容よりも、書いて公開したことだった。法が貴族の記憶の中にあるかぎり、解釈は彼らの思うままになる。板に刻まれた条文は、誰もが引いて争うことができる。貴族と平民の結婚の禁止は、わずか数年後の紀元前445年に撤廃された。書かれていたからこそ、変えるべき条文として名指しできたとも言える。
それでも、法を使いこなす知識は、しばらく神官たちの手に残った。どの日に訴えを起こせるか、法廷でどんな決まり文句を唱えればよいかといった手続きは、神官団が秘密にしていたからである。紀元前304年ごろ、解放奴隷の子で書記をしていたグナエウス・フラウィウスが、その手続きと暦を公表して、民衆の喝采を浴びたと伝えられる。紀元前367年には平民も執政官になれるようになり、紀元前287年には平民会の決議が全市民を縛る法と認められた。十二表法は、こうした長い身分の争いの、最初の大きな一歩だった。
原物の板は残っていない。紀元前390年のケルト人のローマ略奪で失われたとも言われる。それでもローマ人は十二表法を法の源と仰ぎ続け、政治家キケロは、少年のころに十二表法を歌のように暗唱させられたと書いている。いま知られている条文は、後の時代の著作に引用された断片を集めて復元したものである。
十二表法から始まったローマの法は、千年近くかけて積み重なり、6世紀に東ローマの皇帝ユスティニアヌス1世のもとでローマ法大全にまとめられた。それが中世ヨーロッパで再発見され、いまの多くの国の民法の土台になっている。