できごと

第二回三頭政治と追放告示

Proscriptions of the Second Triumvirate
BC43年11月
重要度 5
第二回三頭政治と追放告示に関わる図版:Antony with Octavian aureus
Antony with Octavian aureus Wikimedia Commons You may select the license of your choice. · Public domain

概要

オクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスがボノニアの川の島で会い、殺す者の名簿を作った。元老院議員300人、騎士2000人。キケロの名も。首と手が演壇に釘づけにされた。アントニウスの妻フルウィアが舌に簪を刺した。財産は三人と兵のものに。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(4)

マルクス・アントニウスBC83年–BC30年 · 三頭アウグストゥスBC63年9月23日–14年8月19日 · 三頭レピドゥスBC89年頃–BC13年 · 三頭キケロBC106年1月3日–BC43年12月7日 · 殺された

本文

紀元前44年3月15日、カエサルが元老院で刺し殺された(カエサル暗殺)。暗殺者たちは共和政を取り戻したつもりだったが、ローマはむしろ、カエサルの遺産と兵を誰が継ぐかをめぐる争いに落ちた。カエサルの副官で、その年の執政官だったマルクス・アントニウスは、遺言と遺体を使って民衆を暗殺者に向けて煽り、暗殺者たちは東方へ逃れた。一方、遺言でカエサルの養子とされた18歳の大甥オクタウィアヌス、のちのアウグストゥスは、カエサルの名を継いで、自腹で古参兵を集め始めた。

この若者を使ってアントニウスを抑えようとしたのが、元老院の重鎮キケロである。キケロは紀元前44年の秋から翌年にかけて、アントニウスを国家の敵として攻撃する一連の演説を行った。デモステネスがマケドニアの王フィリッポスを攻撃した演説になぞらえて『フィリッピカ』と呼ばれる。紀元前43年4月、元老院の軍とオクタウィアヌスの軍は、北イタリアのムティナ(いまのモデナ)でアントニウスを破った。しかしこの戦いで二人の執政官がともに死に、軍はオクタウィアヌスの手に残った。キケロは若者を「褒め、飾り、そして片づける」べきだと言ったと伝えられ、その言葉はオクタウィアヌスの耳にも入った。元老院が彼を軽く扱い、執政官の地位を拒むと、オクタウィアヌスは8月、兵を率いてローマに入り、19歳で執政官になった。

敗れたアントニウスはアルプスを越えてガリアへ退き、そこでガリアとスペインの軍を握るレピドゥスと手を結んだ。オクタウィアヌスは元老院を見限り、彼らと組む道を選んだ。紀元前43年の秋、三人はボノニア(いまのボローニャ)近くの川の中州で落ち合い、互いの護衛を岸に残して、2日か3日にわたって話し合った。そこで決まったことは、11月27日の民会の議決で法となった。三人は「国家再建のための三人委員」として、5年の任期で、法を作り、官職を任じる、ほとんど無制限の権限を持つ。15年余り前の第一回三頭政治が私的な盟約だったのに対し、これは法の上の独裁だった。

第一回三頭政治に関わる図版:César (13667960455)
第一回三頭政治Wikimedia Commons Gautier Poupeau from Paris, France · CC BY 2.0

三人がさらに決めたのが、敵の名を公示し、殺し、財産を奪うことだった。この「プロスクリプティオ」(公示)は、紀元前82年にスッラが初めて行ったやり方で、ローマ人にとってはまだ生々しい記憶だった。最初に十数人の名が殺し屋とともに送り出され、のちにローマに名簿が張り出され、追加が続いた。後の歴史家アッピアノスによれば、名を載せられたのは元老院議員がおよそ300人、騎士身分の者がおよそ2000人に及んだ。ほかの史料はもっと少ない数を伝えている。

名簿の条件は過酷だった。名を載せられた者の首を持ってきた者には、自由人なら10万セステルティウス、奴隷なら4万セステルティウスと自由と市民権が与えられる。かくまった者は同じ罪で罰せられる。財産は没収されて競売にかけられ、その金は三人と兵士のものになった。兵士への約束を果たすため、イタリアの18の豊かな町の土地も、戦後に兵に分け与えると約束された。復讐、金、そして兵への報酬。名簿にはそのすべてが絡んでいた。

マルクス・アントニウスの胸像(ヴァチカン美術館)
マルクス・アントニウスWikimedia Commons Commons member Amadscientist created the file from the book by William Smith, Abel Hendy Jones Greenidge, Andrew Dickson · Public domain

三人は、それぞれの敵を差し出し合った。アントニウスの叔父ルキウス・カエサルも、レピドゥスの兄パウルスも名簿に載った。ルキウス・カエサルは、アントニウスの母である姉の取りなしで命を拾ったと伝えられ、パウルスは逃れた。キケロの名を求めたのはアントニウスで、オクタウィアヌスは二日間抵抗した後に譲ったと、プルタルコスは書いている。

キケロは海から逃げようとしてはためらい、フォルミアエの別荘に戻った。12月7日、追っ手が来た。奴隷たちは輿に乗せた主人を海岸へ運ぼうとしたが、途中で追いつかれた。指揮していたのは百人隊長ヘレンニウスと、かつてキケロに弁護されたことのある将校ポピッリウス・ラエナスだったと伝えられる。キケロは担ぎ手を止めさせ、輿から首を差し出して斬られた。63歳だった。首と、『フィリッピカ』を書いた手が切り取られ、ローマに運ばれて、フォルムの演壇(ロストラ)にさらされた。かつてキケロが演説した場所である。歴史家カッシウス・ディオは、アントニウスの妻フルウィアがその首を手に取り、舌を髪のピンで刺し貫いたと書いている。フルウィアの前の夫クロディウスは、キケロの宿敵だった。

アウグストゥス像
アウグストゥスWikimedia Commons Till Niermann · Public domain

ローマの町は、密告と逃亡の物語で満ちた。後の著作家たちは、夫を家にかくまった妻、主人の身代わりになって死んだ奴隷、父を売った息子の話を書き残した。夫を守り抜いた妻を称える長い墓碑の文が残っており、この時代のことだと考えられている。キケロの親友アッティクスは、かつて窮地のフルウィアを助けていたことから、アントニウスに守られて生き延びた。カエサルを殺した者たちの多くもまた、名簿に載った。

奪った財産でも、戦費は足りなかった。紀元前42年、三人は富裕な女性1400人に財産の申告と課税を命じた。弁論家ホルテンシウスの娘ホルテンシアは、女性たちを代表してフォルムで演説し、戦争を決める場に加わっていない者に戦費を払わせるのかと訴えた。対象は400人に減らされた。同じ年、三人の軍はギリシアのフィリッピの戦いでブルトゥスとカッシウスを破り、暗殺者の側は滅んだ。

アントニウスとオクタウィアヌスに威圧されるレピドゥス(右)。シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』の挿絵(H・C・セラス画)
レピドゥスWikimedia Commons Henry Courtney Selous · Public domain

三人の盟約はやがてほころび、レピドゥスは退けられ、最後に残ったオクタウィアヌスとアントニウスがアクティウムの海戦で雌雄を決する。勝ったオクタウィアヌスは紀元前27年にアウグストゥスの称号を受け(元首政の始まり(アウグストゥスの称号))、40年以上にわたってローマを治めた。晩年に自ら書いた業績録で、彼は、勝利の後に赦しを求める市民をすべて許したと記している。名簿のことは書かれていない。哲学者セネカは、皇帝となってからの寛容は、若い頃の残酷さに疲れた末のものだと評した。会談が開かれたボノニアの中州がどこにあったのかは、いまも分かっていない。

同じ時代のできごと

ティロの速記BC63年ポンペイウスのエルサレム占領BC63年カティリナの陰謀BC63年第一回三頭政治BC60年ガリア戦争BC58年新羅の建国(伝承)BC57年(伝承)ルカ会談BC56年ルクレティウス『事物の本性について』BC55年頃
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC43年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →