アラウシオの戦い
概要
北から来たキンブリ人とテウトニ人に、ローマの二つの軍が全滅した。カンナエ以来の敗北で、マリウスの軍制改革を引き出す。
場所
44.14°N 4.81°E · フランス・ヴォクリューズ県
本文
紀元前2世紀の終わり、北の果てから大きな人の群れが南へ動きはじめた。キンブリ人とテウトニ人。古代の著作家たちは、彼らがユトランド半島のあたりから来たと書いている。故郷を捨てた理由は分からない。高潮で土地を失ったという話も古代から伝わるが、確かめようがない。戦士だけでなく、女も子どもも老人も、家財を積んだ荷車と家畜を連れた、民族ごとの移動だった。その数は数十万とも言われるが、古代の数字は大きく膨らみがちで、正確なところは分からない。
彼らは住む土地を求めて中部ヨーロッパをさまよい、紀元前113年、アルプスの東のノレイアで、ローマの執政官カルボの軍を打ち破った。だがそのままイタリアには入らず、西へ向かってガリアへ移った。紀元前109年にも、紀元前107年にも、ローマの軍は南ガリアでゲルマン系や同盟したケルト系の部族に敗れた。107年の敗戦では、執政官が戦死し、生き残った兵は槍で作った門をくぐらされる屈辱を受けた。
このころのローマは、内側にも問題を抱えていた。グラックス兄弟の改革が挫折したあと(ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺)、元老院の貴族たちと、民衆の支持を集める政治家たちの対立は深まっていた。北アフリカでは、ヌミディアの王ユグルタとの戦争(ユグルタ戦争)で、元老院の将軍たちが買収されたり負けたりを繰り返し、その無能が民衆の怒りを買っていた。
紀元前105年、北の部族はふたたびローヌ川の流域に姿を現した。ローマは二つの軍を送った。一つを率いたのは、前の年の執政官で、名門の出のクィントゥス・セルウィリウス・カエピオ。もう一つは、その年の執政官グナエウス・マッリウス・マクシムスで、先祖に高官を持たない新参の政治家だった。カエピオは南ガリアのトロサ(いまのトゥールーズ)で、神殿に納められていた莫大な金銀を奪っていて、その多くがローマに届く途中で行方知れずになっていた。

二人は激しく反目した。執政官としてはマッリウスが上位だったが、家柄で劣る男の指揮に入ることを、カエピオは拒んだ。二つの軍は、ローヌ川の東岸のアラウシオ(いまのオランジュ)の近くに、互いに離れて陣を張った。マッリウスの副官スカウルスの率いる先遣の騎兵は、敵に囲まれて全滅し、捕らえられたスカウルスは殺された。それでもカエピオは合流しなかった。
10月6日、カエピオは手柄を独り占めしようとしたのか、単独で敵の陣に攻めかかり、軍は壊滅した。続いて、動揺したマッリウスの軍も攻め立てられて崩れた。背後には川があり、逃げ場はなかった。ローマの歴史家リウィウスの要約によれば、兵士8万人と、従者や軍属4万人が死んだという。この数字にも誇張があるかもしれないが、ローマが受けた打撃は、111年前のカンナエの戦い以来のものだったことは疑いない。マッリウスは二人の息子をこの戦いで失った。のちに名をあげる若いセルトリウスは、傷を負いながら鎧を着たままローヌ川を泳いで渡り、生きて帰ったと伝わる。

ローマは恐怖に包まれた。300年近く前にケルト人が都を略奪したときの記憶がよみがえった(ケルト人のローマ略奪)。敗戦の責任を問われたカエピオは指揮権を奪われ、のちに国外へ追放された。トロサの金を奪った者には呪いがかかる、という言い回しが生まれた。
元老院の家柄の将軍では、もう国を守れない。民衆はそう考え、北アフリカでユグルタ戦争を終わらせつつあったマリウスを、不在のまま翌年の執政官に選んだ。法の決まりを破って、マリウスは紀元前104年から100年まで5年続けて執政官に選ばれる。そのあいだにマリウスは兵を鍛え直し、軍を作り変えた(マリウスの軍制改革)。財産を持たない市民からも志願兵を募り、装備を国が与え、兵士に自分の荷を背負って行軍させた。兵士たちは、自嘲して自分たちを「マリウスのラバ」と呼んだ。

幸いなことに、アラウシオで勝った部族はそのままイタリアへは攻め込まず、西のイベリア半島へ向かった。そこで先住の人々に押し返されて戻ってきたときには、ローマの新しい軍が待っていた。紀元前102年、マリウスは南ガリアのアクアエ・セクスティアエでテウトニ人を全滅させ、翌101年には北イタリアのウェルケッラエでキンブリ人を打ち破った。
マリウスは国の救い主とたたえられた。だが、職業の兵士となった貧しい市民たちは、国よりも、給料と退役後の土地を約束してくれる将軍に忠誠を誓うようになった。マリウスの下で頭角を現したスッラが、のちに自分の軍を率いてローマに進軍することになる(スッラの独裁)。アラウシオの敗北は、共和政ローマが将軍たちの内戦の時代へ向かう、曲がり角の一つになった。