できごと

ハドリアノポリスの戦い

Battle of Adrianople
AD378年8月9日
重要度 4
ハドリアノポリスの戦いに関わる図版:Battle of Adrianople 378 en
Battle of Adrianople 378 en Wikimedia Commons Bitva_u_Adrianopole.gif : Elias84 derivative work: Dipa_1965 ( talk ) · Public domain

概要

フン人に追われて帝国内に入ったゴート人が、飢えと役人の搾取で反乱し、皇帝の軍を破って皇帝を殺した。帝国は以後、ゴート人を内側に抱えて生きる。

場所

ハドリアノポリス(エディルネ)
41.68°N 26.56°E · トルコ・エディルネ県

本文

375年ごろ、黒海の北の草原に、東からフン人が現れた(フン人の西進とゲルマンの移動)。馬上から弓を射る戦いに長けた彼らに押されて、そこに住んでいたゴート人の勢力は崩れた。376年、ゴート人の一派テルウィンギの人びとが、指導者フリティゲルンに率いられて、ドナウ川の北岸に押し寄せた。家族を連れ、数万人とも言われる。彼らはローマ帝国の領内に移り住むことを願い出た。

東の皇帝ウァレンスは、受け入れを認めた。ペルシアとの戦争を抱え、兵が足りなかった。移り住んだ者は兵になり、荒れた土地を耕す農民になる。帝国はそれまでも、境界の外の人びとを受け入れてきた。ゴート人はドナウを渡り、トラキアに入った。ところが、渡ることを許されなかった別の一派も、混乱に乗じて川を渡ってきた。

受け入れを任されたローマの役人、ルピキヌスとマクシムスは、食料を横領した。飢えたゴート人に犬を売り、その代わりに子どもを奴隷に差し出させた。同時代の歴史家アンミアヌス・マルケリヌスが伝える話で、誇張はあるとしても、帝国の側の扱いがひどかったことは疑われていない。ルピキヌスがゴートの指導者たちを宴に招いて殺そうとしたことで、ついに反乱になった。ゴート人はトラキアの各地を荒らし、鉱山で働かされていた奴隷や脱走兵も加わった。

378年、ペルシアとの戦線から戻ったウァレンスは、自ら軍を率いてゴート人の鎮圧に向かった。西の皇帝で甥のグラティアヌスも援軍を送ると約束していたが、ライン川の向こうの部族との戦いで遅れていた。偵察はゴートの兵を1万ほどと報告した。将軍たちの意見は分かれたが、ウァレンスは援軍を待たずに戦うことを選ぶ。勝利の栄光を甥と分け合いたくなかったのだ、とアンミアヌスは書いている。

378年8月9日、ローマ軍はハドリアノポリスの町を出て、北のゴートの陣地へ向かった。夏の暑い日で、兵は水も食事も無しに何時間も行軍した。ゴート人は草原に火を放ち、熱と煙が兵を苦しめた。フリティゲルンは交渉を申し入れて時間を稼いだ。交渉の最中に、ローマ側の一部の部隊が命令を待たずに攻めかかり、戦いが始まってしまう。

そこへ、食料を求めて遠くに出ていたゴートの騎兵が戻ってきた。同盟するアラン人の騎兵も加わり、ローマの騎兵を追い散らすと、歩兵の側面と背後を突いた。ローマの歩兵は押し詰められ、剣を振るう隙間も無いほど密集して、身動きが取れなくなった。アンミアヌスによれば、軍の3分の2が死んだ。ローマ軍の規模には諸説あり、1万5000人から3万人ほどと見積もられている。主だった将軍たちも死んだ。

皇帝も死んだ。矢に当たって倒れたとも、傷ついて運び込まれた農家ごとゴート人に焼かれたとも伝えられ、遺体は見つかっていない。アンミアヌスは、カンナエの戦い以来の大敗だと書いた。

カンナエの戦いに関わる図版:The Death of Paulus Aemilius at the Battle of Cannae (Yale University Art Gallery scan)
カンナエの戦いWikimedia Commons John Trumbull · Public domain

帝国は、ゴート人を追い出せなかった。グラティアヌスは、将軍のテオドシウス1世を東の皇帝に立てた。テオドシウスは数年かけて戦い、また交渉し、382年にゴート人と条約を結んだ。ゴート人はドナウの南の帝国領に住むことを認められ、帝国のために兵を出す。条約の細かい中身は史料に乏しく議論があるが、彼らは自分たちの指導者のもとにまとまったまま帝国内に住んだと考えられている。

帝国の中に、帝国の民になりきらない集団ができた。それまで帝国は、移り住んだ人びとを分けて散らし、ローマの民に溶け込ませてきた。ハドリアノポリスの後、それができなくなった。そのゴート人の中から出たアラリックが、378年から32年後の410年、ローマを略奪する(西ゴートのローマ略奪)。この戦いを西ローマ帝国の終わりの始まりとする見方は、ここから来ている(西ローマ帝国の滅亡)。

出典(2)

塩野七生 『ローマ人の物語』XIV キリストの勝利
エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』第26章

同じ時代のできごと

ユリアヌスの異教復興AD361年カッパドキア教父AD370年頃敦煌の石窟の造営AD366年(造営の始まり)近肖古王の平壌攻めAD371年高句麗への仏教伝来AD372年フン人の西進とゲルマンの移動AD375年顧愷之「女史箴図」AD380年頃前秦の華北統一AD376年
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