ローマの水道
概要
監察官アッピウス・クラウディウスが、市の外の水源から水を引いた。全長約16キロ、そのほとんどが地下である。以後五百年で十一本が加わり、総延長は五百キロを超えた。動力は重力だけで、勾配は一キロあたり数十センチに保たれる。谷は水道橋で越えた。運ばれた水は、まず公共の泉と浴場へ行き、余った分が個人の家に配られた。管理者フロンティヌスが記録を残しており、無許可の分岐が横行していたことも書かれている。市内の水は、昼夜、止まらずに流れ続けた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
紀元前312年、ローマの監察官アッピウス・クラウディウス・カエクスは、市の外の泉からローマへ水を引く工事を行った。同じ年、彼は南へ延びる街道の建設も始めている。のちにアッピア街道と呼ばれる道である。水道も道も、彼の名で呼ばれることになった。それまでローマの人々は、テヴェレ川の水や井戸、泉、雨水に頼っていた。都市が大きくなるにつれて、それだけでは足りなくなっていた。
アクア・アッピアと呼ばれたこの最初の水道は、長さ約16キロで、そのほとんどが地下を通っていた。地上に姿を見せたのは、市内に入る直前のわずかな区間だけである。地下に通した理由はいくつか考えられる。地上に出ていれば戦のときに敵に断たれやすい。日に当たれば水が温まり、藻が生える。地上を通せば、他人の土地をまたぐ面倒も起きる。
それから500年あまりのあいだに、水道は次々に加えられた。紀元前272年のアニオ・ウェトゥス、紀元前144年のアクア・マルキア、そしてテプラ、ユリア、ウィルゴ、アルシエティナ。クラウディウス帝の時代の紀元52年にはアクア・クラウディアとアニオ・ノウスが完成し、トラヤヌス帝の水道(109年)、アレクサンデル・セウェルス帝の水道(226年)で11本がそろった。総延長は500キロを超える。中でもアクア・マルキアは長さ約91キロに及び、水がよく冷たいことで評判だった。その水道橋の遺構は、いまもローマ郊外の野に連なっている。
水を運ぶ力は重力だけである。だから水路はごく緩い傾きで、一定に下り続けなければならない。傾きは区間によって違い、1キロ進んで数十センチしか下がらないところもあれば、数メートル下がるところもある。急すぎれば流れる水が水路の床を削り、緩すぎれば流れが滞って泥がたまる。
その傾きを、ローマの技術者は簡単な道具で測った。建築家ウィトルウィウスが記したコロバテスは、長さ6メートルほどの台に溝を彫って水を張り、水面や錘の糸で水平を確かめる水準器である。直角を出すグロマ、角度を測るディオプトラも使われた。500キロに及ぶ水路は、こうした道具と、測っては掘る根気によって通された。
谷にぶつかれば、橋を架けた。石のアーチを何段にも積み上げた水道橋である。南フランスのニームへ水を運んだ水道のポン・デュ・ガールは、三段のアーチで高さ約49メートルに達し、50キロほどの全長で十数メートルしか下がらない水路を、谷の上に渡している。橋では越えられない深い谷では、鉛の管で谷底へ下ってまた上る逆サイフォンを使った。リヨンの水道にはいくつものサイフォンがあり、谷底の管には10気圧を超える圧力がかかったと見積もられている。鉛も手間も大量に要るので、できるかぎりは橋にした。
市内に着いた水は、まず配水槽(カステッルム)に入り、そこから分けられた。優先されたのは公共の泉で、市内に数百あった。貧しい人々はそこから水を汲んだ。次が浴場で、個人の家に引かれるのは最後だった。のちにカラカラ浴場のような巨大な浴場を満たしたのも、この水である。紀元97年に水道の長官となった元老院議員フロンティヌスは、余った水が個人に与えられる、という趣旨のことを書き残している。
フロンティヌスの『ローマ市の水道について』は、古代の水道について私たちが持つ最も詳しい史料である。彼は就任すると、水道を自分の足で調べ直した。すると帳簿の上の水量と、実際に配られている水量が合わない。途中で勝手に管を分けて水を引いている者が大勢いて、水道の管理人たちは金を受け取ってそれを見逃していた。彼はこうした盗水を摘発し、水量を記録し直した。水道は、技術だけでなく、帳簿と取り締まりによっても保たれていたのである。
ローマにどれだけの水が流れ込んでいたのかについては、推定が大きく割れる。1日に50万立方メートルから100万立方メートルという見積もりがあり、人口で割ると1人1日数百リットルになる。ただし、この数字はそのまま現代と比べられない。ローマの水道には蛇口がなく、水は昼も夜も流れ続けていた。泉からあふれた水はそのまま下水へ流れ込み、大部分は使われずに捨てられていた。そのあふれた水が、大下水道クロアカ・マクシマを洗い流し、町の汚れを川へ運んでいた。
水道の終わりは、戦争とともに来た。東ゴート王国とビザンツ帝国の戦争のさなか、537年に東ゴートの王ウィティギスがローマを包囲し、水道を断ち切った。前年にローマを取り戻していたベリサリウスは町を守り抜いたが(ベリサリウスのローマ奪還)、水道の多くは元には戻らなかった。人々は再びテヴェレ川の水を飲み、丘の上の地区は人が住まなくなって、町は川沿いに縮んだ。最盛期には100万人ほどだったとされるローマの人口は、中世には数万人まで落ち込んだ。
修復が始まるのはルネサンスの時代である。1453年、教皇ニコラウス5世はアクア・ウィルゴを修復させた。その出口には、のちに18世紀になってトレヴィの泉が造られる。観光客が肩越しにコインを投げ入れるあの泉に流れ込んでいるのは、紀元前19年に通された水道の水である。
アッピウスが最初の水道を引いてから2300年あまり、ローマにはいまも古代の水路をたどる水が流れている。都市に水を絶やさず流し続けることは、ローマという国家の力の証であり、その水が断たれたとき、都市そのものが縮んだ。水道は、都市がどれほど脆いものの上に立っているかも示している。