できごと

アクティウムの海戦

Battle of Actium
BC31年9月2日
重要度 5
アクティウムの海戦に関わる図版:Medinaceli Actium reliefs 06
Medinaceli Actium reliefs 06 Wikimedia Commons Mark Landon · CC BY 4.0

概要

オクタウィアヌスがアントニウスとクレオパトラの艦隊を破り、ローマ世界の唯一の勝者となった。

場所

アクティウム
38.94°N 20.76°E · ギリシア・アイトリア=アカルナニア県

関わった人(3)

アウグストゥスBC63年9月23日–14年8月19日 · オクタウィアヌス側 · 総指揮クレオパトラ7世BC69年–BC30年8月12日(10日説あり) · アントニウス側 · 参戦アグリッパBC63年–BC12年 · 艦隊の指揮

本文

紀元前44年のカエサル暗殺の後、カエサルの部下だったマルクス・アントニウスと、カエサルの養子オクタウィアヌス、そしてレピドゥスの三人が手を組んだ。第二回三頭政治と追放告示で政敵を処刑し、紀元前42年のフィリッピの戦いでカエサルを暗殺したブルトゥスらを破ると、三人はローマ世界を分けて治めた。アントニウスは豊かな東方を、オクタウィアヌスはイタリアと西方を取った。

東方に入ったアントニウスは、エジプトの女王クレオパトラ7世と結びついた。エジプトは地中海でいちばん豊かな国で、その財力は東方での戦争に欠かせなかった。二人のあいだには子が生まれた。一方でアントニウスは、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと政略結婚をしていた。紀元前36年のパルティア遠征は大きな損害を出して失敗し、アントニウスはますますエジプトの財力に頼るようになる。

アクティウムの海戦(1672年、ラウレイス・ア・カストロ画)
アクティウムの海戦(1672年、ラウレイス・ア・カストロ画)Wikimedia Commons Laureys a Castro · Public domain

西方では、オクタウィアヌスの友人アグリッパが、海上でイタリアの食糧を脅かしていたセクストゥス・ポンペイウスを紀元前36年に破り、レピドゥスも失脚した。残る対立は、オクタウィアヌスとアントニウスの二人だけになった。

紀元前34年、アントニウスはアレクサンドリアで、クレオパトラとその子らに東方の領土を分け与える儀式を行った。オクタウィアヌスはこれをローマの領土を外国の女王に与える行為だと攻撃した。紀元前32年には、ウェスタの巫女に預けられていたアントニウスの遺言状を持ち出し、死んだらアレクサンドリアに葬ってほしいと書かれていると公表した。アントニウスはオクタウィアと離婚した。ローマはクレオパトラに宣戦した。宣戦の相手がアントニウスではなく女王だったことに、この戦争の性格がよく出ている。

若きオクタウィアヌス(アウグストゥス)の復元像、紀元前30年頃
若きオクタウィアヌス(アウグストゥス)の復元像、紀元前30年頃Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

アントニウスとクレオパトラは、ギリシア西岸のアンブラキア湾に艦隊と陸軍を集めた。アグリッパは先回りして補給の拠点を奪い、湾の出口を押さえた。アグリッパはナポリ湾の近くに港を造って艦隊を鍛え上げた、オクタウィアヌスの右腕だった。オクタウィアヌス自身は軍の指揮が得意ではなく、この戦いの勝利の多くはアグリッパの手によるとされる。湾の中の陣営では食糧が足りなくなり、病が広がり、脱走者が相次いだ。有力な将軍たちもオクタウィアヌス側へ移った。戦う前から、アントニウスは追い詰められていた。

紀元前31年9月2日、アントニウスの艦隊は湾の外へ出た。アントニウス側の船は大きく重く、オクタウィアヌス側の船は小さく小回りが利いた。船の数は史料によって幅があるが、オクタウィアヌス側が上回っていたとされる。戦いの最中、後ろに控えていたクレオパトラの艦隊が帆を上げて戦列の隙間を抜け、南へ去った。アントニウスも小さな船に乗り移って後を追った。

マルクス・アントニウスの胸像(ヴァチカン美術館)
マルクス・アントニウスの胸像(ヴァチカン美術館)Wikimedia Commons Commons member Amadscientist created the file from the book by William Smith, Abel Hendy Jones Greenidge, Andrew Dickson · Public domain

この場面は、恋に目がくらんだ将軍が部下を見捨てたものとして語られてきた。しかし、帆を積んで出撃していたことなどから、最初から包囲を破ってエジプトへ逃れる計画だったとする見方もある。どちらにしても、残された艦隊は降伏し、数日後には陸軍も戦わずに降った。

プルタルコスの『英雄伝』は、この戦いを、すぐれた将軍が女王への愛のために身を滅ぼす悲劇として描いた。のちにシェイクスピアはこれをもとに『アントニーとクレオパトラ』を書いている。ただし、プルタルコスが参照した史料の多くは、勝ったアウグストゥス側の記録だった。アントニウスの側から書かれた記録はほとんど残っていない。

翌年、オクタウィアヌスはエジプトに攻め込んだ。紀元前30年8月、アレクサンドリアが落ち、アントニウスは自ら命を絶った。クレオパトラも捕虜として凱旋式で引き回されることを拒んで自死した。毒蛇に噛ませたという話が有名だが、確かなことは分かっていない。クレオパトラの死で、プトレマイオス朝は終わった。カエサルとクレオパトラの子とされたカエサリオンも殺され、エジプトはオクタウィアヌスが直接治める土地になった。

クレオパトラの死に関わる図版:Roman Wall painting from the House of Giuseppe II, Pompeii, 1st century AD, death of Sophonisba, but more likely Cleopat
クレオパトラの死Wikimedia Commons Ancient Roman painter(s) · Public domain

エジプトの富は、すぐに使われた。王家の財宝で兵士に退職後の土地や金を与え、内戦の後始末をつけることができた。ナイルの穀物は毎年ローマへ送られ、首都の食糧を支えるようになった。元老院議員は皇帝の許しなくエジプトに入ることを禁じられた。この富を誰かに握られれば、新たな内乱の火種になるからである。

これで、ローマ世界に軍を持つ競争相手はいなくなった。グラックス兄弟の時代から約100年続いた内乱が、ここで終わる。オクタウィアヌスは紀元前27年に元老院から「アウグストゥス」の称号を受け、共和政の形を残したまま事実上の君主になった。元首政の始まり(アウグストゥスの称号)である。アクティウムの近くには「勝利の町」を意味するニコポリスが建てられた。

アクティウムの海戦図(ダンヴィル作、1734年、パリ)
アクティウムの海戦図(ダンヴィル作、1734年、パリ)Wikimedia Commons Jean Baptiste Bourguignon d ' Anville · CC BY 4.0

勝った側はこの戦争を、東方の女王に惑わされた男からローマを救った戦いとして語った。ウェルギリウスら同時代の詩人もその物語を歌い、内戦は対外戦争として記憶された。クレオパトラの悪女のイメージの多くは、この勝者の宣伝に由来するとされる。

動画(1)

天下分け目のアクティウムの海戦 〜女王の意地を貫き通したクレオパトラの最期〜【COTEN RADIOショート #4】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO海戦そのものより、なぜアントニウス側が崩れたのかを政治の側から追う

出典(1)

塩野七生 『ローマ人の物語』V ユリウス・カエサル ルビコン以後

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