できごと

カエサル暗殺

Assassination of Julius Caesar
BC44年3月15日
重要度 5
カエサル暗殺に関わる図版:Vincenzo Camuccini - La morte di Cesare (cropped 3-2)
Vincenzo Camuccini - La morte di Cesare (cropped 3-2) Wikimedia Commons Vincenzo Camuccini · Public domain

概要

元老院会議の場で共和派の一団に刺殺された。共和政の回復ではなく、次の内戦の始まりになった。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(3)

ガイウス・ユリウス・カエサルBC100年7月12日(13日説あり)–BC44年3月15日 · 被害者ブルートゥスBC85年–BC42年10月23日 · 刺したカッシウスBC86年頃–BC42年10月3日 · 仕組んだ

本文

紀元前49年、ガイウス・ユリウス・カエサルは軍を率いてルビコン川を渡った(ルビコン渡河)。属州の総督が軍を連れたままイタリアに入ることは、国家への反逆を意味した。そこから4年あまり、カエサルはポンペイウスと元老院の主流派を相手に、ギリシア、エジプト、北アフリカ、ヒスパニアと、地中海じゅうを戦い抜いた。紀元前45年に最後の抵抗を破ったとき、ローマにカエサルに逆らえる者はいなくなっていた。

カエサルは、勝ったあとに敵を殺さなかった。スッラがかつて政敵を名簿に載せて大量に殺したのとは逆に、降った者を赦し、元の地位に戻し、役職まで与えた。寛容はカエサルの看板だった。ただし赦すことは、赦す側が上に立つことでもある。赦された者たちは、命を救われた恩と、救われるしかなかった屈辱を同時に抱えた。

カエサルの死(ヴィンチェンツォ・カムッチーニ画)
カエサルの死(ヴィンチェンツォ・カムッチーニ画)Wikimedia Commons Vincenzo Camuccini · Public domain

紀元前44年の初め、カエサルは終身の独裁官になった。独裁官はもともと、非常時に6か月だけ置く職である。元老院は彼に次々と栄誉を与え、肖像は硬貨に刻まれ、生まれた月は彼の名で呼ばれることになった。いまの7月(ジュライ)はここから来ている。2月の祭りで、腹心のアントニウスが王の冠を差し出すと、カエサルはこれを退けた。だが、退けてみせたこと自体が、王になる気があるのではないかという疑いを強めた。

終身独裁官に就いた男を、共和政を守るために殺す。陰謀に加わった者は60人を超えたとされる。下手人の多くはカエサルに赦された元敵か、引き立てられた部下だった。中心にいたカッシウスは、内戦でポンペイウスの側に立ちながら赦された人物である。ブルートゥスは母セルウィリアがカエサルの愛人で、本人もポンペイウス側で戦ったあと助命され、法務官の職まで与えられている。ブルートゥスは、500年近く前に王を追放した伝説の英雄の子孫を称していた。共謀者たちにとって、その名を担いでいることには大きな意味があった。

Brutus and the Ghost of Caesar (1802), copperplate engraving by Edward Scriven from a painting by Richard Westall, illustrating Act IV, Scene III, from Shakespeare's Julius Caesar
Brutus and the Ghost of Caesar (1802), copperplate engraving by Edward Scriven from a painting by Richard Westall, illustrating Act IV, Scene III, from Shakespeare's Julius CaesarWikimedia Commons Edward Scriven · Public domain

カエサルは3日後に、東方のパルティアへの大遠征に出発する予定だった。遠征に出れば何年も戻らない。決行するなら今しかなかった。

3月15日の朝、元老院はポンペイウスが建てた劇場に付属する会堂で開かれることになっていた。のちの伝記作家たちは、さまざまな前兆を書き残している。占い師がかねて3月15日に気をつけよと告げていた。妻カルプルニアは不吉な夢を見て、夫に出かけないよう頼んだ。カエサルは一度は欠席しかけたが、共謀者の一人デキムス・ブルートゥスに説き伏せられて家を出た。途中で陰謀を知らせる書き付けを渡されたが、読まないまま手に持っていたという。どこまでが事実で、どこからが後の脚色かは分からない。

カエサルの死(ヴィクトル・オノレ・ヤンサンス画)
カエサルの死(ヴィクトル・オノレ・ヤンサンス画)Wikimedia Commons Victor Honoré Janssens · Public domain

会堂に入ると、共謀者の一人が、追放された兄の赦免を願い出るふりをしてカエサルに近づき、その衣を引いた。それが合図だった。最初の一撃は首の近くをかすめただけだった。カエサルは抵抗したが、四方から短剣が突き出された。スエトニウスによれば、傷は23か所あり、そのうち命取りになったのは胸の一突きだけだったと医師が見立てた。カエサルはポンペイウスの像の足元に倒れた。

最期の言葉は、よく知られた「ブルートゥス、お前もか」ではない。それはシェイクスピアの劇の台詞である。スエトニウスは、カエサルは何も言わずに衣で顔を覆って倒れたと書き、ギリシア語で「子よ、お前もか」と言ったと伝える者もいる、と付け加えている。

カエサルの死(ジャン=レオン・ジェローム画)
カエサルの死(ジャン=レオン・ジェローム画)Wikimedia Commons Jean-Léon Gérôme · Public domain

殺した側に、その後の計画は無かった。暴君さえいなくなれば、共和政は自然に戻ると考えていた節がある。カエサルの右腕だったアントニウスを一緒に殺そうという意見を、ブルートゥスが退けたとされる。殺したのは暴君であって、カエサルの部下たちではない、という理屈だった。共謀者たちは「自由」を叫びながら会堂を出たが、市民は逃げ散り、町は静まり返った。

2日後、元老院では妥協が成立した。暗殺者たちは罪に問わない。その代わり、カエサルの決めた法令や任命はそのまま有効とする。ところが、カエサルの遺言が読み上げられると空気が変わった。ローマの市民一人一人に金を贈り、テヴェレ川の向こうの庭園を市民に開放する、と書かれていたからである。葬儀でアントニウスがカエサルの血に染まった衣を示して演説すると、群衆は激昂し、広場で遺体を火葬にし、その火を持って暗殺者たちの家を襲った。共謀者たちはローマを逃れた。

実際には権力の空白が生まれ、アントニウスと、遺言でカエサルの養子かつ相続人に指名されていた18歳の甥の息子オクタウィアヌスが埋めた。二人ははじめ反目したが、紀元前43年にはレピドゥスを加えて手を結び、政敵の名簿を作って大量に殺した(第二回三頭政治と追放告示)。カエサルの寛容とは正反対のやり方で、雄弁家キケロもこのとき殺されている。紀元前42年、フィリッピの戦いでブルートゥスとカッシウスは敗れ、ともに自ら命を絶った。

第二回三頭政治と追放告示に関わる図版:Antony with Octavian aureus
第二回三頭政治と追放告示Wikimedia Commons You may select the license of your choice. · Public domain

十数年の内戦のあと、オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラを破り、紀元前27年にアウグストゥスの称号を得る(元首政の始まり(アウグストゥスの称号))。彼は王を名乗らず、共和政を回復したと宣言しながら、実際には一人で国を治める仕組みを作った。カエサルの失敗から学んだやり方だった。共和政を守るための暗殺が、帝政への道を早めた。

カエサルが残したものは、帝政だけではない。紀元前45年に施行したユリウス暦(ユリウス暦の施行)は、1年を365日とし、4年に一度閏年を置く暦だった。ところが彼の死後、神官たちが数え方を誤って3年ごとに閏年を入れてしまい、暦はずれていった。これを閏年をしばらく止めることで立て直したのが、アウグストゥスだった。その暦は形を少し変えながら、2000年後のいまも使われている。人が消えても、その人が敷いた仕組みは残った。

動画(1)

「ブルートゥス、お前もか。」栄華を極めた男の最期【COTEN RADIO#151】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO暗殺者たちの動機を、共和政への忠誠として描く

出典(2)

スエトニウス 『ローマ皇帝伝』ユリウス 81–82
塩野七生 『ローマ人の物語』V ユリウス・カエサル ルビコン以後

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