カンナエの戦い

概要
中央をあえて後退させる両翼包囲でローマ軍を殲滅。ローマ史上最悪の敗北とされ、以後ローマは会戦を避ける持久戦略へ転じた。
場所
41.31°N 16.13°E · イタリア・プッリャ州バルレッタ近郊
関わった人(1)
ハンニバル・バルカBC247年–BC183年(一説にBC181年) · カルタゴ側 · 総指揮本文
紀元前216年8月2日、南イタリアのアプリア地方、アウフィドゥス川のほとりの平原で、ローマ軍はカルタゴの将軍ハンニバル・バルカの軍に包み込まれ、ほぼ全滅した。ローマが一日の戦いで失った兵の数としては、その長い歴史の中で最悪とされる。そして、数で劣る側が敵を四方から囲んで殲滅したこの戦いは、二千年以上にわたって、軍人たちが繰り返し学ぶ手本になった。
ことの始まりは2年前にさかのぼる。紀元前218年、カルタゴの支配するイベリア半島から、ハンニバルは象を連れてピレネーとアルプスを越え、北からイタリアに攻め込んだ(ハンニバルのアルプス越え)。第二次ポエニ戦争の始まりである。その年の冬にはトレビアの戦いで、翌年には待ち伏せによるトラシメヌス湖の戦いで、ハンニバルはローマ軍を続けて打ち破った。トラシメヌスでは執政官フラミニウスが戦死している。

危機に陥ったローマは、ファビウス・マクシムスを独裁官に選んだ。ファビウスは正面からの戦いを避け、ハンニバルの軍の後をつけて補給を妨げ、時間をかけて弱らせる策をとった。だが、自分たちの畑が焼かれるのを黙って見ているこのやり方は、ローマの市民には臆病に映り、彼は「ぐず」とあだ名された。翌年、ローマは方針を改め、決戦で決着をつけることにした。
紀元前216年、ローマは二人の執政官、ルキウス・アエミリウス・パウルスとガイウス・テレンティウス・ウァロに、かつてない大軍を預けた。通常の倍にあたる8個の軍団に、同盟市の兵を加えた軍である。数は史料によって幅があるが、ギリシア人の歴史家ポリュビオスの記述では、歩兵8万に騎兵6千あまり。対するハンニバルは歩兵4万に騎兵1万ほどで、歩兵の数ではローマが倍だった。ただし騎兵ではハンニバルが勝っていた。執政官二人は一日ごとに交代で全軍を指揮する決まりで、慎重なパウルスと積極的なウァロは意見が合わなかったと伝えられる。戦いの日の指揮はウァロの番だった。

ハンニバルは、ローマ軍の補給の拠点だったカンナエの町を押さえて、敵を誘い出した。その布陣に、この戦いのすべてがあった。中央には、ガリア人とイベリア人の歩兵を、敵に向かって弓なりにふくらませた形で並べた。最も信頼できるアフリカ出身の重装歩兵は、その中央の両脇に、後ろに引いて控えさせた。左翼には部将ハスドルバル(イベリアにいたハンニバルの同名の弟とは別人)の率いるガリアとイベリアの重い騎兵、右翼には身軽なヌミディアの騎兵を置いた。
一方のローマ軍は、自慢の重装歩兵の数で押し切ろうとした。歩兵の隊列をいつもより縦に深く組み、狭い幅で中央を一気に突き破る構えをとった。

戦いが始まると、ローマの歩兵は弓なりに張り出したカルタゴの中央にぶつかった。ガリアとイベリアの兵は、押されながらもすぐには崩れず、じりじりと後ろへ下がっていった。ふくらんでいた弧は平らになり、やがて逆に内側へへこんでいく。勝っていると思ったローマの兵は、勢いに乗ってへこみの奥へ奥へと押し込んだ。後ろの列も前に詰め、隊列はますます密集していった。
その間、左翼ではハスドルバルの騎兵がローマの騎兵を蹴散らしていた。彼はそのままローマ軍の背後を回り込み、反対側でヌミディア騎兵と戦っていた同盟市の騎兵を挟み撃ちにして追い散らした。

そこで、控えていたアフリカの重装歩兵が動いた。両脇から内側に向き直り、深く入り込んだローマ歩兵の左右の側面に襲いかかった。最後に、敵の騎兵を追い払ったハスドルバルの騎兵が、ローマ歩兵の背後を塞いだ。前も横も後ろも囲まれたローマの兵は、あまりに詰まりすぎて、武器を振るう余地すらなくなった。あとは殺されるのを待つばかりだった。
死者の数は、ポリュビオスが約7万、ローマの歴史家リウィウスが約4万8千と伝え、現代の研究でも5万前後から7万まで推計が分かれている。いずれにせよ、ローマ軍の大半が一日のうちに死ぬか捕らえられた。カルタゴ側の死者は6千ほどだった。執政官パウルスは戦死し、元老院の議員の身分にある者だけでも80人ほどが死んだとされる。ウァロは生き延びてローマに戻った。元老院は、敗軍の将を責めるかわりに、彼が「国家に絶望しなかった」ことに感謝したと伝えられる。

ローマ中が喪に服した。だが、ローマは降伏しなかった。和平の使者を受け入れることを拒み、捕虜の身代金を払うことも拒んだ。兵が足りなくなると、財産のない者や若すぎる者、さらには奴隷まで買い上げて兵にした。
ハンニバルは、勝利のあとローマへ向かわなかった。リウィウスによれば、騎兵隊長マハルバルは、すぐにローマへ進めば5日後にはカピトルの丘で食事ができると進言し、ハンニバルがためらうと「あなたは勝ち方は知っているが、勝利の使い方を知らない」と言ったという。この言葉はリウィウスの物語の中のもので、実際に言われたかどうかは分からない。攻城の兵器も十分な兵力も持たないまま、城壁に囲まれた大都市を攻めるのは無理だった、と見る研究者も多い。

ハンニバルの本当の狙いは、ローマの同盟市を離反させ、ローマを孤立させることだった。カンナエのあと、南イタリアの大都市カプアや、シチリアのシラクサ、マケドニア王国がカルタゴの側についた(シュラクサイ攻囲とアルキメデスの死)。それでも、中部イタリアのラテン人の都市をはじめ、同盟市の大半はローマを見捨てなかった。ローマは再び持久の策に戻り、ハンニバルを南イタリアに封じ込めた。
カンナエを生き延びたローマ兵は、敗戦の恥としてシチリアに送られ、長く本国に戻ることを許されなかった。その兵たちを率いて、のちにアフリカへ渡ったのが大スキピオである。スキピオはハンニバルの戦術を研究し尽くし、紀元前202年、ザマの戦いでついにハンニバルを破った。カンナエに参加し、生き延びた若者の一人だったとも伝えられる。
カンナエは、戦術では勝ちながら戦争では負けた典型として語られる。そして、包囲による殲滅の理想として、後世の軍人たちを魅了し続けた。19世紀の終わり、ドイツ参謀総長シュリーフェンはこの戦いを熱心に研究し、フランスを大きく回り込んで包囲する作戦計画の着想の一つにした。第一次世界大戦の初め、東部戦線のタンネンベルクでドイツ軍がロシア軍を包囲殲滅したとき、それは「カンナエの再現」と称えられた。だが、西部戦線での大包囲は失敗に終わり、戦争は長い塹壕戦に変わった。一つの戦いに勝つことと、戦争に勝つことは違う。カンナエは、その教訓までを含めて、いまも士官学校で読まれている。