コンスタンティノープル遷都
概要
帝国の重心が東へ移った。この都はこの後1100年以上続く。
場所
41.01°N 28.98°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
コンスタンティヌス1世AD272年頃–337年5月22日 · 当人本文
ボスポラス海峡の入り口、ヨーロッパの側に突き出した岬に、ビザンティオンという古いギリシアの植民市があった。紀元前7世紀にメガラの人々が築いたと伝えられる町である(ビュザンティオンの建設)。2世紀の末には皇帝セプティミウス・セウェルスに逆らって一度破壊され、建て直されていた。ローマ帝国の中では、交易で栄える地方の一都市にすぎなかった。
3世紀のローマ帝国は、皇帝が次々に殺され、東からはササン朝ペルシア(ササン朝の成立)、北からはゲルマン系の諸部族に攻め込まれる危機の時代だった。皇帝たちは国境に近い場所で指揮をとるようになり、ローマ市に住まなくなっていた。ディオクレティアヌスは小アジアのニコメディアを、同僚の皇帝たちはミラノやトリーアを拠点にした。帝国の実際の中心は、すでにローマ市を離れつつあった。
コンスタンティヌス1世は、312年にローマ市の近くで対立する皇帝を破り(ミルウィウス橋の戦い)、西の支配者になった。324年には東の皇帝リキニウスを、ほかならぬビザンティオンの対岸、クリュソポリスで破り、帝国をただ一人で治めることになった。新しい都をこの地に置くと決めたのは、その直後である。

位置がすべてだった。ヨーロッパとアジアを分ける海峡に面し、黒海と地中海を結ぶ水路を押さえる。三方を海に囲まれ、陸側だけ壁を築けばよい。北側の入り江「金角湾」は、天然の良港になった。ドナウ川の国境にも、ササン朝と向き合う東の国境にも、ローマより近い。穀物の供給地エジプトからは、船で直接麦を運び込めた。
コンスタンティヌスは町を大きく広げ、新しい城壁で囲んだ。皇帝が自ら槍を手に城壁の線を引いて歩き、あまりに先へ進むので供の者が尋ねると、私の前を歩く方が止まるまで進む、と答えたという話が伝わる。後世の伝承だが、新しい都にかけた意気込みを示す逸話としてよく引かれる。

都の工事は急ピッチで進んだ。皇帝の宮殿、戦車競走のための大競技場、円形の広場、その中央に立つ斑岩の円柱が造られた。帝国の各地から古い彫像や記念物が運び込まれて町を飾った。ギリシアのデルフォイの神殿から運ばれた青銅の「蛇の柱」は、ペルシア戦争の勝利を記念したもので、今もイスタンブールの競技場跡に立っている。元老院も置かれ、市民には、ローマ市と同じように穀物が無料で配られた。
330年5月11日、新しい都は正式に奉献された。名は「新しいローマ」とされたが、人々はやがて皇帝の名をとってコンスタンティノープル(コンスタンティヌスの町)と呼ぶようになる。

この都がキリスト教の都として造られたのかどうかは、議論がある。コンスタンティヌスはキリスト教を保護し、聖使徒教会などの教会を建て、自分もそこに葬られた(コンスタンティヌスの洗礼と死)。だが同時に、町の守護女神の像を祀り、古い神々の彫像も飾っている。異教とキリスト教が並び立つ過渡期の都だったとみる研究者が多い。
ローマ市は元老院とともに残ったが、皇帝がそこにいない都市になった。帝国の重心が東へ移ったことは、もはや形の上でも明らかになった。395年に帝国が東西に分けられると(ローマ帝国の東西分割)、コンスタンティノープルは東の帝国の都として、ますます大きくなっていく。

都の格が上がるにつれて、その司教の地位も上がった。381年の公会議は、コンスタンティノープルの司教を、新しいローマの司教としてローマに次ぐ地位に置いた。451年のカルケドン公会議はさらに、ローマと同じ特権を認めた。ローマの司教はこれを受け入れず、二つの都の教会の張り合いは、何百年もかけて東西の教会が分かれていく遠い始まりの一つになった。
5世紀の初めには、町をさらに広げて陸側に三重の城壁が築かれた。この城壁は、その後千年にわたって、フン族、アヴァール人、アラブ人、ブルガール人などの攻撃をくい止めた。6世紀にはユスティニアヌス1世のもとでハギア・ソフィアの完成が建てられ、町の人口は数十万に達したとみられる。

この都が外敵に初めて落とされたのは、1204年、同じキリスト教徒である第4回十字軍によってだった。そして1453年、オスマン帝国のメフメト2世の大砲の前に、ついに陥落する(コンスタンティノープル陥落)。330年から数えて1123年。西ローマが消えたあとも、住民は最後まで自分たちを「ローマ人」と呼び続けた。町はその後もオスマン帝国の都イスタンブールとして栄え、ヨーロッパとアジアの境に立つ大都市であり続けている。