人物

オドアケル

Odoacer
AD433年 – AD493年3月15日(享年60・推定)
イタリア王国重要度 4

概要

スキリ族の王の子。ローマの傭兵隊長。476年、土地を求めた兵に推されて、16歳の皇帝を退位させ、帝冠をコンスタンティノープルに送った。「西に皇帝はいらない。私はあなたの代理」。イタリア王。17年。テオドリックに3年囲まれ、和睦の宴で自分の手で殺された。

関わったできごと(1)

西ローマ帝国の滅亡AD476年 · 退位させた

本文

オドアケルは、476年に西ローマの最後の皇帝を退位させ、イタリアの王となった人物である。この出来事は、のちに西ローマ帝国の滅亡の年として教科書に載ることになる(西ローマ帝国の滅亡)。だが本人に帝国を滅ぼすつもりがあったかといえば、そうとは言いにくい。彼は皇帝の位を奪わず、ただ西に皇帝は要らないと言ったのである。

帝位を退くロムルス・アウグストゥルス(19世紀の挿絵)
帝位を退くロムルス・アウグストゥルス(19世紀の挿絵)Wikimedia Commons Bernhard Mörlins (B. Moerlins) · Public domain

433年ごろの生まれとされる。父のエデコは、フン族の王アッティラの側近で、東ローマの宮廷に使者として赴いたことが記録に残る。アッティラの死後、エデコはドナウ川中流のスキリ族の王となったが、スキリ族は469年ごろ東ゴート族との戦いに敗れて散り散りになった。若いオドアケルは、多くのゲルマン系の戦士と同じように、ローマ帝国の軍に職を求めてイタリアへ向かった。

その途中、彼はドナウ川のほとりのノリクムで、聖人として慕われていた修道士セウェリヌスを訪ねたという。粗末な毛皮をまとった背の高い若者に、セウェリヌスは、イタリアへ行け、お前はいまは粗末な皮をまとっているが、やがて多くの人に多くのものを与えることになる、と告げた。聖人の弟子が書いた伝記に載る話である。

476年のオドアケル王国
476年のオドアケル王国Wikimedia Commons Shuaaa2 · CC BY 4.0

5世紀後半の西ローマ帝国は、もはや名ばかりの存在だった。実権を握っていたのは、ゲルマン系の兵を率いる将軍たちで、彼らが皇帝を立てては廃した。オドアケルもそうした軍の中で頭角を現した。475年、将軍オレステスは皇帝ネポスを追い出し、自分の幼い息子ロムルスを帝位につけた。ロムルス・アウグストゥルスである。

イタリアにいたゲルマン系の兵たちは、ローマの同盟軍として他の地方で認められていたように、イタリアの土地の3分の1を自分たちに分け与えるよう求めた。オレステスがこれを拒むと、兵たちはオドアケルのもとに集まった。オドアケルは要求を認めると約束し、476年8月23日、兵たちに王として推戴された。数日後、彼は北イタリアのプラケンティア(いまのピアチェンツァ)でオレステスを捕らえて処刑し、9月にはラヴェンナに入って、少年の皇帝を退位させた。オドアケルはロムルスの命を取らず、年金を与えてナポリ近くの館に住まわせた。

テオドリックがオドアケルを殺す伝説的な場面(『テオドリック年代記』1181年)
テオドリックがオドアケルを殺す伝説的な場面(『テオドリック年代記』1181年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ここで、オドアケルは自ら皇帝を名乗らなかった。ローマの元老院の名で東ローマの皇帝ゼノンに使節を送り、皇帝の衣装と標章を返した。西に別の皇帝を置く必要はなく、ゼノン一人が両方を治めればよい、イタリアの統治はオドアケルに委ねてほしい、という申し出である。ゼノンは、正式な西の皇帝はダルマティアに逃れているネポスだと答えたが、オドアケルを退けることもしなかった。オドアケルはネポスの名で貨幣を打つなどして体面を保ち、480年にネポスが殺されると、その仇を討つという名目でダルマティアを手に入れた。

オドアケルの称号は単に「王」で、何の民族の王とも名乗らなかった。ローマの元老院はそのまま残り、執政官も毎年選ばれ、ローマ人の役人が行政を担った。兵たちには約束どおり土地が配られたが、イタリアの人々の暮らしは大きくは変わらなかった。オドアケルはカトリックの教会とも折り合いをつけた。北アフリカのガイセリックとは交渉して、貢納と引き換えにシチリアの大部分を取り戻している。

こうして十数年、イタリアは比較的安定した。だが、その力がドナウ方面へ及ぶようになると、ゼノンは警戒した。オドアケルは487年、ドナウ川の北のルギ族を討ち、その王を捕らえた。ゼノンは、東ローマの領内で扱いに困っていた東ゴート族の王テオドリック大王に、オドアケルを討ってイタリアを治めるよう持ちかけた。

489年、テオドリックの率いる東ゴートの民がアルプスを越えてイタリアへ入った。オドアケルはイソンツォ川とヴェローナで敗れ、翌年にはアッダ川でも敗れて、湿地に守られた都ラヴェンナに籠もった。籠城はおよそ3年続いた。493年2月、ラヴェンナの司教の仲立ちで、二人の王がイタリアを共同で治めるという和議が結ばれた。

3月、テオドリックはオドアケルを宴に招いた。その席で、テオドリックは自らの剣でオドアケルを肩から斬り下ろし、この男には骨がないのか、と言ったと伝えられる。60歳前後だった。弟や家族も殺され、妻は牢で餓死させられた。こののちイタリアは東ゴートの王の下に置かれる(テオドリックのイタリア統治)。

476年という年が、古代と中世を分ける年として強く意識されるようになったのは、ずっと後のことである。それでも6世紀の初めには、東ローマの年代記作者が、西のローマ人の帝国はアウグストゥルスとともに滅びた、と書いている。帝国を終わらせるつもりのなかった一人の傭兵隊長は、皇帝を立てなかったという一点で、時代の境目に名を残すことになった。

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