概要
アクキガイ科の巻貝の鰓下腺から、ごく微量だけ取れる分泌物。空気と日光にさらすと、黄から緑、青を経て、深い赤紫に変わる。1グラムの染料に貝が1万個要る。だからこの色は、王と神官と高位の官職の色になった。ローマでは皇帝以外が全身を紫に染めることを禁じ、ビザンツでは皇后の産室を紫の石で覆って「生まれながらの紫(ポルフュロゲネトス)」と呼んだ。1453年のコンスタンティノープル陥落で製法が途絶えた。
場所
33.27°N 35.20°E · レバノン・南レバノン県
本文
**貝**。
地中海に住む、アクキガイ科の巻貝。**シリアツブリボラ**(Hexaplex trunculus)、**シボリアクキガイ**(Bolinus brandaris)、そして**アカニシ**の仲間(Stramonita haemastoma)。
これらの貝の、鰓の下にある**鰓下腺(パープル腺)**から、透明な分泌物が出る。
本来の役割は、獲物を麻痺させることと、卵を守る抗菌物質と考えられている。
**製法**。
(1)貝を採る。 (2)殻を割り、腺を取り出す(大きな貝は腺だけ、小さな貝は貝ごと砕く)。 (3)塩を加え、3日置く。 (4)鉛の釜(あるいは錫の釜)で、弱火で10日ほど煮詰める。プリニウスは「煮詰めて元の6分の1にする」と書いている。 (5)試しに羊毛を浸して、色を見る。
**発色**。
液は、最初は無色ないし淡い色である。
染めた布を**空気と日光にさらす**と、色が変わっていく。
**黄 → 緑 → 青 → 赤紫**。
化学的には、分泌物に含まれる無色の前駆体が、酵素と光によって酸化され、**6,6'-ジブロモインジゴ**になる。藍(インジゴ)に臭素が二つ付いた分子である。
**臭い**。
工程は、猛烈な悪臭を放つ。腐った貝の匂いである。
染色場は、街の風下に置かれた。ローマの法は、染色業者を市壁の外に置くことを定めた。
(皮肉なことに、その色を着る者は、その匂いから遠く離れていた。)
**量**。
プリニウスの記述と、現代の実験からの推定。
**1グラム**の染料に、貝が**約1万個**。
ローブ1着を染めるには、数十万個。
**値段**。
ローマ帝国のディオクレティアヌスの最高価格令(301年)。
紫に染めた絹、1ポンド **15万デナリウス**。
同じ表で、パン職人の日当が50デナリウス。労働者が一生働いても届かない。
(同じ重さの金の、10〜20倍という試算もある。)
**貝塚**。
ティルス(現レバノンのスール)の郊外に、**貝殻の丘**がある。高さ数メートル、長さ数百メートル。砕かれた貝殻が積み上がったもの。
シドン、そしてクレタ島、ギリシア、北アフリカ、モロッコの大西洋岸(**エッサウィラ**の沖の島には、ローマ期の染色工場の遺構がある)。
**フェニキア**。
「フェニキア」という名そのものが、ギリシア語の **phoinix**(赤紫)に由来する、というのが有力な説である。**紫の人々**。
彼らの富の一部は、この色から来た。
**法**。
色が、地位を示す記号になった。
- ローマ共和政。元老院議員のトガに、紫の縁取り(トガ・プラエテクスタ)。凱旋将軍は全身紫(トガ・ピクタ)。 - ローマ帝政。皇帝が全身の紫を独占した。ネロは、私人が紫を着ることを死罪とした。 - **ビザンツ帝国**。皇后の産室は、紫の斑岩(ポルフュリー)で覆われていた。そこで生まれた皇子は「**ポルフュロゲネトス**(緋室に生まれし者)」と呼ばれた。正統性の称号である。
(コンスタンティノス7世は、この称号を名として名乗った。)
- 皇帝の署名は、**紫のインク**。皇帝の文書は、紫の羊皮紙。
**キリスト教**。
紫は、教会の位階にも入った。枢機卿の緋色、司教の紫。
(現代の教皇と枢機卿の衣の色は、貝紫ではなく、後世の代替染料による。)
**終わり**。
**1453年**、コンスタンティノープル陥落。
染色の工房と、その技術を持つ職人の系統が、途絶えた。
(それ以前から、生産は縮小していた。オスマンの征服が最後の一撃だった。)
以後、ヨーロッパでは、**ケルメス**(カイガラムシから取る赤)や、新大陸の**コチニール**(メキシコのサボテンに寄生する虫。スペインが独占した)が、高貴な赤として使われた。
**復元**。
貝紫の製法は、19世紀まで正確には分からなかった。
1856年、フランスのアンリ・ラカーズ=デュティエが、貝の腺を特定した。1909年、ドイツのパウル・フリートレンダーが、1万2000個の貝から**1.4グラム**の染料を得て、その分子構造を決定した。ジブロモインジゴ。
**現在**。
貝紫は、いまも、ごく少量、伝統技術として作られている。メキシコのオアハカでは、**プルプラ・パンサ**という貝を採らずに(岩から外して分泌させ、また戻す)染める技法が、ミシュテカの人々に伝えられている。
日本にも、貝紫染めがある。吉野ヶ里遺跡の布から、この染料が検出されたという報告がある。
そして、**1856年**。18歳のイギリスの学生が、石炭タールから、偶然、鮮やかな紫を作った。
貝を1万個割らなくても、紫が手に入るようになった。
その色は、**モーヴ**と呼ばれた。