できごと

ティルスの紫

Tyrian purple
BC1500年頃
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC1500年頃の版図を描いています(31勢力)。

概要

アクキガイ科の巻貝の鰓下腺から、ごく微量だけ取れる分泌物。空気と日光にさらすと、黄から緑、青を経て、深い赤紫に変わる。1グラムの染料に貝が1万個要る。だからこの色は、王と神官と高位の官職の色になった。ローマでは皇帝以外が全身を紫に染めることを禁じ、ビザンツでは皇后の産室を紫の石で覆って「生まれながらの紫(ポルフュロゲネトス)」と呼んだ。1453年のコンスタンティノープル陥落のころには、製法はほぼ途絶えていた。

場所

ティルス
33.27°N 35.20°E · レバノン・南レバノン県

本文

地中海の岩場には、トゲのある殻をまとった肉食の巻貝が住んでいる。アクキガイ科の数種の貝が、古代の紫の染料の元になった。これらの貝は、えらの下にある小さな腺から、無色に近い液を出す。獲物を弱らせるためとも、卵を細菌から守るためとも考えられている。この液を布に付けて空気と日光にさらすと、色が黄から緑、青へと移り、最後に深い赤紫になる。化学の言葉で言えば、液に含まれる物質が光と酸素で変化して、藍(インジゴ)に臭素が二つ付いた分子になる。

この染料がいつ始まったのかは、はっきりしない。紀元前2千年紀の前半には、クレタ島のミノア文明で貝の紫が作られていた跡が見つかっている。そして、紀元前1500年ごろから、地中海の東岸、いまのレバノンの海岸の港町ティルスやシドンが、この染料の一大産地になった。ティルスの郊外には、砕かれた貝殻が積み上がってできた丘が残っている。のちにギリシア人は、この海岸の人々を「フェニキア人」と呼んだ。その名は、ギリシア語で赤紫を意味する言葉に由来するという説が有力である。紫の人々、というわけだ。

貝紫色に用いたシリアツブリガイ
貝紫色に用いたシリアツブリガイWikimedia Commons M.Violante · CC BY 2.5

作り方は、ローマの博物学者プリニウスが書き残している。貝を集め、大きな貝は殻を割って腺だけを取り出し、小さな貝は殻ごと砕く。塩を加えて3日ほど置き、鉛か錫の釜で、何日もかけてとろ火で煮詰める。羊毛を浸しては色を確かめ、望みの色になるまで続ける。二度染めて、より深い色にすることもあった。

その作業は、ひどい悪臭を放った。腐った貝の匂いが町にこもり、染物の工房は町はずれや風下に置かれたとされる。古代の著述家は、ティルスの町の臭いに触れている。その色を身にまとう王や貴族は、匂いからはるかに遠いところにいた。

テオドール・ファン・トゥルデン『ヘラクレスの犬による紫の発見』、1636年ごろ
テオドール・ファン・トゥルデン『ヘラクレスの犬による紫の発見』、1636年ごろWikimedia Commons Theodoor van Thulden / After Peter Paul Rubens / Peter Paul Rubens · Public domain

そして何より、量が取れなかった。一つの貝から出る液はほんのわずかで、20世紀の初めにドイツの化学者パウル・フリートレンダーが確かめたところでは、1万2千個の貝から得られた純粋な染料は1.4グラムほどだった。一着の衣を染めるのに、何万、何十万という貝が要る。しかも、日に当たっても褪せにくく、洗っても落ちにくい。古代の世界で、これほど美しく、これほど長持ちし、これほど高い色は、ほかに無かった。

値段の手がかりがある。紀元301年、ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、帝国じゅうの物と労賃に上限を定める布告を出した(ディオクレティアヌスの最高価格令)。そこでは、最上の紫に染めた絹1ポンドが15万デナリウスとされている。同じ布告で、パン職人の一日の賃金は50デナリウスだった。

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Wikimedia Commons Staff of Ptil Tekhelet · CC BY 3.0

高いものは、身分のしるしになる。ローマの共和政の時代、高い官職に就いた者は紫の縁取りのある衣を着た。凱旋する将軍は、紫一色の衣をまとうことを許された。帝政に入ると、紫は次第に皇帝の色になり、皇帝の中には、自分以外の者が紫を身につけることを禁じた者もいた。「紫をまとう」という言い方は、皇帝の位に就くことを意味するようになった。

その考えは、東ローマ、つまりビザンツ帝国にも受け継がれた。コンスタンティノープルの宮殿には、紫色の石(斑岩)で壁を張った部屋があり、皇后はそこで子を産んだ。在位中の皇帝の子としてそこで生まれた皇子や皇女は「紫の部屋に生まれた者(ポルフュロゲネトス)」と呼ばれ、それは正統な血筋を示す称号になった。10世紀の皇帝コンスタンティノス7世は、この呼び名を自分の名に添えて名乗っている。皇帝は紫のインクで署名し、特別な書物は紫に染めた羊皮紙に金や銀の文字で書かれた。

トガ・ピクタ(紫の縁取りの衣装)を着た人物の現代の再現画
トガ・ピクタ(紫の縁取りの衣装)を着た人物の現代の再現画Wikimedia Commons Public domain

ビザンツ帝国が衰えるにつれ、紫の工房も細っていった。1453年、オスマン帝国がコンスタンティノープルを落としたとき、皇帝のための紫の染色はすでにほとんど途絶えており、その技術はここで絶えたとされる。その後のヨーロッパでは、カイガラムシから取るケルメスや、新大陸のサボテンに付く虫から取るコチニールの赤が、高貴な色の役を担った。カトリックの枢機卿の衣の赤も、こうした染料で染められるようになった。

貝の紫の作り方は、長く謎だった。19世紀の半ば、フランスの動物学者が色を出す腺を突き止め、1909年にフリートレンダーが染料の分子の形を明らかにした。いまも地中海の沿岸やメキシコのオアハカの海岸などで、伝統の技として少量の貝の紫が作られている。オアハカでは、貝を岩から外して液を出させ、殺さずにまた岩へ戻すやり方が伝えられてきた。日本でも、佐賀県の吉野ヶ里遺跡から出た布に、貝の紫が使われていたという報告がある。

コンピタリア祭を描いたフレスコ画
コンピタリア祭を描いたフレスコ画Wikimedia Commons Public domain

紫を王の独占から解き放ったのは、法ではなく化学だった。1856年、ロンドンの18歳の学生ウィリアム・パーキンが、石炭タールから薬を作ろうとして、偶然、鮮やかな紫の染料を作り出した(モーヴと合成染料)。貝を1万個割らなくても、誰もが紫を着られる時代が、そこから始まった。

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