マリウスの軍制改革

概要
無産市民を兵に取った。兵は土地を将軍に頼るようになり、軍が個人に忠実になる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
マリウスBC157年–BC86年 · 当人本文
紀元前2世紀の終わり、ローマはすでに地中海の大半を支配していた。だがその足元で、軍を支える仕組みが崩れかけていた。ローマの軍団に入れるのは、一定の財産を持つ市民だけだった。兵は自分で武具をそろえ、戦いが終われば自分の畑に帰る。土地を持つ農民が、そのまま兵士だったのである。
長い海外の戦争が、この農民を痛めつけた。兵として何年も家を空けるあいだに畑は荒れ、戦争で得た奴隷を使う大農場に土地を買い取られていった。土地を失った市民はローマの町に流れ込んだ。財産の資格を満たす市民が減れば、兵になれる人も減る。資格の額は何度か引き下げられていたが、それでも兵は足りなかった。この問題を土地の再分配で解決しようとしたグラックス兄弟は、元老院の議員たちに殺されている(ティベリウス・グラックスの農地改革と暗殺)。

そのころ、ローマは北アフリカのヌミディア王ユグルタと戦っていた(ユグルタ戦争)。元老院が送った将軍たちは負けるか、ユグルタに買収されたと噂された。そこで頭角を現したのがマリウスである。イタリア中部の町の騎士身分の家に生まれ、先祖に高官を持たない「新人」だった。彼は貴族の将軍たちの無能を攻撃して民衆の支持を集め、紀元前107年に執政官に選ばれた。民会はアフリカでの戦争の指揮を、元老院の意向に逆らってマリウスに与えた。
兵を集めるとき、マリウスは財産の資格を問わなかった。財産をほとんど持たず、ただ「頭数」として数えられていた貧しい市民を、志願兵として受け入れたのである。武具は国が用意した。歴史家サルスティウスは、マリウスが慣習を破って財産の無い者を兵にした、と書いている。
これで兵が足りない問題は解決した。マリウスの軍はユグルタを追い詰め、紀元前105年、副官スッラが交渉でユグルタを捕らえた。同じ年、北から南下してきたゲルマン系のキンブリ族とテウトネス族が、ガリア南部のアラウシオでローマ軍に大勝した(アラウシオの戦い)。アラウシオでのローマの戦死者を、古代の著者は8万と記している。誇張を含むとしても、ハンニバルに敗れたカンナエ以来の大敗だった。イタリアが侵されるという恐怖の中、マリウスは慣例を破って5年続けて執政官に選ばれ、兵を鍛え直した。紀元前102年のアクアエ・セクスティアエの戦いと翌年のウェルケラエの戦いで、侵入者を壊滅させた。

この時期の改革として、マリウスの名はほかにも多くの変化と結びつけられている。兵が重い荷を自分で担いで行軍するようにした(兵士は「マリウスのラバ」と呼ばれた)、軍団の旗を銀の鷲に統一した、軍団の単位を大きな隊にまとめ直した、などである。ただし、これらの多くは数十年をかけて少しずつ進んだ変化で、マリウス一人の改革とみるのは後世の単純化だという見方が強い。「マリウスの軍制改革」という呼び方自体、近代の学者が付けたものである。
それでも、財産の無い者が兵になったことの影響は大きかった。農民の兵は、戦いが終われば帰る畑があった。財産の無い兵には、除隊した後の暮らしの当てがない。彼らが求めたのは、除隊のときに土地をもらうことだった。元老院はその分配に消極的だったから、兵士たちは土地を約束してくれる将軍に期待をかけた。兵は国家ではなく、自分を率いる将軍に忠誠を向けるようになった。

それがはっきりしたのは紀元前88年である。東方の戦争の指揮権をマリウスと争ったスッラが、自分の兵を率いてローマの町に攻め入った。ローマの軍がローマに向かったのは、これが初めてだった。マリウスは逃げ、翌年スッラが東へ去ると兵を集めて戻り、反対派を大量に殺した。紀元前86年、7度目の執政官に就いた直後に病で死んでいる。帰国したスッラは内戦に勝ち、独裁官として反対派を一掃した(スッラの独裁)。
将軍と兵が結びつく仕組みは、その後のローマの政治を動かし続けた。マリウスの妻ユリアは、ガイウス・ユリウス・カエサルの叔母にあたる。カエサルは若い頃からマリウスの縁者として見られ、やがて自らも、ガリアで鍛えた兵に支えられてルビコン渡河を果たす。共和政は、軍の忠誠が国家から個人へ移っていく中で、内戦を重ねて終わりへ向かった。

ただし、軍が個人に属するようになった原因を、すべてマリウスの一つの決定に求めるのは言い過ぎだろう。土地を失った市民の問題、元老院が兵士の暮らしに手を打たなかったこと、長い戦争で将軍が大きな権限を持つようになったことが重なった結果である。マリウスの決定は、その流れを目に見える形にしたものだった。