コロッセウムの完成
概要
5万人を収容した円形闘技場。トラバーチンの石を積み上げて建てられた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
紀元64年、ローマの町の大半が焼けた(ローマ大火)。皇帝ネロは焼け跡の都心に、黄金宮殿と呼ばれる広大な宮殿を造った。庭園、森、ぶどう畑が広がり、中央には海のような人工の池があり、入口には自分の姿をかたどった巨大な青銅像が立った。市民の町の真ん中が、一人の皇帝の私邸になったのである。
68年、ネロは反乱に追い詰められて自害し、ローマは翌年、4人の皇帝が次々に立つ内乱に陥った。勝ち残ったのが、ユダヤでの反乱の鎮圧に当たっていた将軍ウェスパシアヌスである。家柄の低い軍人の皇帝には、市民の支持が要った。ウェスパシアヌスはネロの宮殿の池を埋め立て、その跡に、市民が集まって見世物を楽しむための巨大な円形闘技場を造りはじめた。皇帝が私物化した土地を、市民に返すという意味が込められていた。工事が始まったのは70年代のはじめで、費用には70年にエルサレムを落としたユダヤ戦争の戦利品が充てられたとみられる。

ウェスパシアヌスは完成を見ずに79年に死に、息子のティトゥスが80年に落成させた。正式な名は、一族の名をとってフラウィウス円形闘技場という。コロッセウムという呼び名は、そばに残っていたネロの巨像(コロッスス)に由来するとされ、中世になって広まった。
建物は楕円形で、長径はおよそ190メートル、短径はおよそ155メートル、高さは50メートル近い。外壁はローマの東の採石場から運んだトラバーチンという石灰質の石で造られ、内部にはコンクリートと煉瓦が使われた。コンクリートで大きな空間を造る技術は、半世紀ほど後のハドリアヌスのパンテオンで頂点に達する。外壁は4層で、下から順にドリス式、イオニア式、コリント式の柱で飾られている。最上層には、日よけの大きな布を張るための柱を立てる受け口が並び、海軍の水兵がこの布を操ったと伝えられる。

収容人数は5万人前後と見積もられる。1階には80の出入口があり、そのうち76には番号が振られていて、観客は札に書かれた番号の入口から入り、決まった階段を通って自分の席に着いた。席は身分によって分かれ、闘技場に近い最前列は元老院議員、上に行くほど身分が下がり、最上層には女性や貧しい人々が座った。帝国の社会の序列が、そのまま客席の高さになっていた。
落成を祝う見世物は100日間続いた。歴史家カッシウス・ディオは、このとき9000頭の獣が殺されたと書いている。剣闘士の試合、猛獣狩り、罪人の処刑が行われ、闘技場に水を張って模擬海戦を見せたという記録もある。ただし水を張れたのは、床下の構造が造られる前の初期だけだったとみられる。

次の皇帝ドミティアヌスの時代に、闘技場の床下に地下構造が造られた。石と煉瓦の通路と小部屋が迷路のように走り、猛獣の檻や剣闘士の控えの間、舞台装置が置かれた。人力で動かす昇降機と滑車で、獣や背景の装置を床の落とし戸から突然出現させることができた。見世物は、皇帝が民衆に気前よさを示し、民衆が皇帝に歓声や不満を直接ぶつける場でもあった。
剣闘士の試合は5世紀のはじめごろまでに行われなくなり、猛獣狩りも6世紀に入って途絶えた。その後、建物は住まいや工房、要塞、墓地として使われた。847年や1349年の大地震で南側の外壁が崩れると、崩れた石は格好の建材になった。中世からルネサンスにかけて、トラバーチンは切り出されて運び去られ、ローマの宮殿や教会、サン・ピエトロ大聖堂の工事にも使われたと伝えられる。外壁に無数に開いている穴は、石と石をつないでいた金属の留め具を抜き取った跡である。

崩れかけた闘技場を守ったのは、教会だった。18世紀の半ば、教皇ベネディクトゥス14世は、ここをキリスト教の殉教者の記念の場とし、十字架の道行きの場所を設けて、石の持ち出しを禁じた。ただ、ここで多くのキリスト教徒が殺されたという言い伝えには、確かな史料の裏付けがない。19世紀以降、補強と修復が繰り返され、いまも毎年の聖金曜日には教皇が十字架の道行きを行う。
コロッセウムの形は、後の世界中の競技場の手本になった。番号付きの入口から多くの人を短い時間で出し入れする仕組みも、身分で分かれた客席も、形を変えて現代のスタジアムに生きている。建てた皇帝の名前より、その巨大さが記憶に残った建物である。中世の巡礼者のあいだには、コロッセウムが立っている限りローマは立ち続け、それが倒れるときローマも倒れる、という言葉が伝わった。