ミトリダテス戦争

概要
ポントスの王が小アジアのローマ人8万人を一日で殺させ、25年ローマと戦った。毒に慣らした体は、最後に毒で死ねなかった。
場所
42.03°N 35.16°E · トルコ・シノップ県(ポントス王国の都)
関わった人(1)
ミトリダテス6世BC135年–BC63年 · 王本文
ポントスは、黒海の南岸、いまのトルコの北東部にあった王国である。王家はペルシアの貴族の血を引くと称し、ギリシアの文化を身につけていた。紀元前2世紀の終わり、その王位に就いたのがミトリダテス6世である。父の王は毒殺されたとされ、少年だったミトリダテスは、母や周囲の者に命を狙われることを恐れて、長く人里を離れて暮らしたと伝えられる。やがて都に戻って母を退け、自ら国を治めるようになった。
毒への恐れは、彼の生涯につきまとった。ミトリダテスは毒と解毒剤を熱心に研究し、毎日少しずつ毒を飲んで体を慣らしたという。彼が作らせたという万能の解毒剤は、後の世まで「ミトリダティウム」の名で伝わった。博物学者のプリニウスは、彼が支配下の22の言葉を話したと書いている。

ミトリダテスは、黒海をぐるりと囲むように国を広げた。北岸のクリミア半島のギリシア人の町々を保護下に置き、東のコルキスも従えた。だが南と西では、ローマの勢力とぶつかった。ローマは紀元前133年に小アジアの西部を手に入れて属州アジアとし、その周りの王国にも口を出していた。
属州アジアの人びとは、ローマの支配に苦しんでいた。税の取り立ては、入札で権利を買った徴税請負人に任されていた。彼らは払った額より多くを取り立てようとし、払えない者には高い利子で金を貸し、土地や家族まで奪った。ローマの総督たちも、しばしば私腹を肥やした。

紀元前89年、ローマの使節にそそのかされた隣国ビテュニアの王がポントスに攻め込んだ。ミトリダテスは反撃し、ローマが集めた軍を次々に破って、小アジアの大半を手に入れた。各地の町は、彼を解放者として迎えた。捕らえられたローマの使節は、金への欲を戒めるためだとして、溶かした金を喉に流し込まれて殺されたと伝えられる。
紀元前88年、ミトリダテスは小アジアの町々に密かに命令を送った。決められた日に、町にいるローマ人とイタリア人を、女も子どもも奴隷も、一人残らず殺せ。殺した者には、殺された者の財産の半分を与え、主人を殺した奴隷は自由にする。その日、各地で虐殺が行われた。殺された人数は、ある古代の著述家は8万人、別の著述家は15万人と伝えている。数には誇張があるとしても、多くの町がためらわずに命令を実行したことは、ローマがどれほど憎まれていたかを物語っている。

ローマは、すぐには動けなかった。イタリアでは、ローマ市民権を求める同盟市との戦いが終わったばかりで(同盟市戦争)、ミトリダテスとの戦いの指揮権をめぐって、スッラとマリウスが争っていた。その隙に、ミトリダテスの軍はエーゲ海を渡ってギリシアに入り、アテネも彼の側についた。
紀元前87年、ようやくスッラが5個軍団を率いてギリシアに上陸した。翌年、長い包囲の末にアテネを落とし、町は略奪された。続いてボイオティアのカイロネイアとオルコメノスで、ミトリダテスの大軍を破った。だがスッラはローマで政敵が権力を握ったことを知り、急いで帰りたかった。紀元前85年、ミトリダテスに奪った土地を返させ、賠償金と船を出させるだけで講和した。小アジアの町々には、ミトリダテスの側についた罰として重い賠償が科された。スッラはイタリアに戻って内戦に勝ち、独裁官となる(スッラの独裁)。
ミトリダテスは、その後も力を蓄えた。紀元前73年、三度目の戦いが始まった。ローマの将軍ルクルスは、ミトリダテスの軍を破ってポントスを奪い、王は娘婿のアルメニア王のもとへ逃れた。ルクルスはアルメニアにまで攻め込んだが、遠征が長引くと兵士たちが反乱を起こし、指揮を解かれた。
紀元前66年、指揮を引き継いだのはポンペイウスだった。ポンペイウスはミトリダテスを破り、王は黒海をぐるりと回ってクリミアに逃れた。年老いた王は、そこからドナウ川を遡ってイタリアに攻め込む計画を立てていたといわれる。だが息子のファルナケスが背き、兵士たちも王を見捨てた。
紀元前63年、追い詰められたミトリダテスは、毒をあおった。一緒に飲んだ娘たちはすぐに息絶えたが、長年毒に慣らしてきた王の体には、毒が効かなかった。王はそばにいたガリア人の護衛に頼んで、剣で自分を刺させた。70歳を超えていたとされる。
ポンペイウスは、そのまま東方の秩序を作り直した。ポントスの一部を属州とし、シリアを属州に加え、同じ年にエルサレムにも入った(ポンペイウスのエルサレム占領)。ローマの支配は、地中海の東の端まで及んだ。
ミトリダテスは、ローマが最も手こずった敵の一人として記憶された。毒に体を慣らすことを、いまもミトリダティズムと呼ぶ。17世紀のフランスの劇作家ラシーヌは彼を主人公に悲劇を書き、14歳のモーツァルトはそれをもとにオペラ『ポントの王ミトリダーテ』を作曲した。