マルコマンニ戦争

概要
ドナウの向こうのゲルマン諸族が、疫病で兵の減ったローマに押し寄せた。皇帝は14年、前線で過ごし、陣中で『自省録』を書き、ウィーンで死んだ。ローマが守る側に回った最初の戦争になる。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
関わった人(1)
マルクス・アウレリウス121年4月26日–180年3月17日 · 皇帝本文
2世紀のなかば、ローマ帝国は五賢帝のもとで安定の頂点にあった。北の国境はライン川とドナウ川で、川の向こうにはゲルマン系やサルマタイ系の多くの部族が住んでいた。ローマは彼らと交易し、ときに贈り物を与え、ときに部族どうしを争わせて、国境を保っていた。その均衡が、160年代に崩れる。
161年に即位したマルクス・アウレリウスは、義理の弟のルキウス・ウェルスを共同皇帝に立てた。ウェルスが率いた東方のパルティア遠征は勝利に終わったが、166年ごろに帰還した兵が疫病を持ち帰った(アントニヌスの疫病)。天然痘だったとする説が有力で、帝国の各地で多くの人が死に、軍団も兵を失った。ちょうどそのころ、ドナウの向こうでランゴバルド人などがパンノニアに侵入した。これが長い戦争の始まりになる。マルコマンニ、クァディ、ヤジュゲスといった部族が次々に動いた背景には、さらに北や東の部族、たとえばゴート人の移動に押されたことがあったと考えられている。

168年、二人の皇帝はそろって北へ向かった。翌年ウェルスが急死し、マルクスは一人で戦争を担うことになる。170年ごろ、マルコマンニとクァディを中心とする侵入軍は、ドナウを越えてアルプスの峠を抜け、北イタリアのアクイレイアを囲み、オピテルギウム(いまのオデルツォ)を焼いた。外敵がイタリアの地に踏み込んだのは、共和政の時代以来のことだった。同じころ、別の部族コストボキは南へ下ってギリシアに達し、エレウシスの聖域を荒らした。
兵も金も足りなかった。『ローマ皇帝群像』によれば、マルクスは奴隷や剣闘士、山賊まで兵に取り、宮殿の宝物や皇后の衣装をトラヤヌスの広場で競売にかけて軍資金を作ったという。皇帝はそれから十年あまり、ほとんどローマに戻らず、ドナウ沿いの陣営で過ごした。172年ごろのクァディとの戦いでは、渇きに苦しむローマ軍に突然の豪雨が降ったという「雨の奇跡」が語られ、のちにキリスト教徒はこれを自分たちの祈りの功とした。
陣営の夜、マルクスはギリシア語で自分に向けた覚え書きを書いた。それが『自省録』として残る。巻の境目には「クァディ族の地、グラヌア川のほとりにて」「カルヌントゥムにて」という書き込みがあり、この覚え書きが戦場で書かれたことを伝えている。死はいつでも来る、名声はむなしい、与えられた持ち場で務めを果たせ。そうした言葉は、疫病と戦争に囲まれた日々の中から出てきたものだった。

175年、東方の将軍アウィディウス・カッシウスが、皇帝が死んだという噂を受けて帝位を名乗り、マルクスは講和を急いで東へ向かった。反乱はすぐにつぶれたが、北の戦いは片づかず、177年に再び始まる。マルクスは息子のコンモドゥスを共同皇帝にして、ともに前線に立った。ドナウの向こうに新しい属州マルコマンニアとサルマティアを置く計画があったと伝えられるが、どこまで具体的だったかは研究者のあいだで意見が分かれる。
180年3月17日、マルクスは陣中で病に倒れて死んだ。58歳。死んだ場所は、ウィンドボナ(いまのウィーン)とする史料と、シルミウム(いまのセルビアのスレムスカ・ミトロヴィツァ)とする史料がある。跡を継いだコンモドゥスは、部族と講和を結んでローマへ帰った。部族には兵の提供や国境から離れて住むことを求めたが、属州を広げる話はそれで消えた。

ローマのコロンナ広場には、この戦争を浮き彫りでらせん状に刻んだマルクス・アウレリウスの記念柱がいまも立っている。トラヤヌスの記念柱をまねたものだが、こちらには焼かれる村や連れ去られる女たちが生々しく刻まれ、勝利の誇りよりも戦争の苦しさが目に付く。攻めて領土を広げる戦争ではなく、押し寄せる部族から国境を守る戦争。ローマが防ぐ側に回る時代の始まりを、この戦争に見る歴史家は多い。それから3世紀、同じ川の向こうから来る人々の圧力が、帝国の西半分を変えていくことになる。