人物

カラタクス

Caratacus
? – AD54年頃
ブリトン人重要度 3

概要

カトゥウェッラウニ族の王クノベリヌスの子。「シンベリン」。43年に負けてウェールズへ。8年、ゲリラ。カルティマンドゥアに売られた。ローマ。「なぜこれほど持つ者が、我々の小屋を欲しがるのか」。クラウディウスが赦した。ローマで死んだ。ブリテンで最初に名の残る抵抗者。

関わったできごと(1)

クラウディウスのブリタニア征服AD43年 · 戦った

本文

ブリタニア南東部の有力な部族カトゥウェッラウニの王クノベリヌスの子として生まれた。父はシェイクスピアの戯曲『シンベリン』の題になった王である。カトゥウェッラウニはテムズ川の北、いまのハートフォードシャーのあたりを本拠とし、東隣のトリノウァンテスを従えて、カムロドゥヌム(いまのコルチェスター)を都にした。クノベリヌスの貨幣はブリタニアの南東部に広く出回り、ローマの文人スエトニウスは彼を「ブリトン人の王」と呼んでいる。ローマの品を買い、ローマの文字を貨幣に刻みながら、ローマには従わない。それが父の代のやり方だった。

トマス・プリザーチ画、カラタクスの水彩画
トマス・プリザーチ画、カラタクスの水彩画Wikimedia Commons Thomas Prytherch · Public domain

40年頃にクノベリヌスが死ぬと、兄トゴドゥムヌスとカラタクスが勢力を広げ、南のアトレバテス族の王ウェリカを追い出した。ウェリカはローマへ逃れ、皇帝クラウディウスに助けを求めた。即位して間もなく、軍事の手柄を欲していたクラウディウスにとって、これは格好の口実になった。43年、4個軍団を中心とする約4万の軍がブリタニアに上陸した(クラウディウスのブリタニア征服)。

兄弟はメドウェイ川とみられる川で二日にわたって戦い、ついでテムズ川で敗れた。トゴドゥムヌスはこの戦いの前後に死んだ。クラウディウス自身が象を連れて海を渡り、カムロドゥヌムに入城した。カラタクスは都を捨て、西へ逃れた。

ローマでクラウディウスの前に立つカラタクス(アンドリュー・ビレル画、ヘンリー・フューズリーの原画に基づく、1792年)
ローマでクラウディウスの前に立つカラタクス(アンドリュー・ビレル画、ヘンリー・フューズリーの原画に基づく、1792年)Wikimedia Commons Andrew Birrell (fl. 1782–1809), after Henry Fuseli (1741–1825) · Public domain

ここから8年、彼は抵抗を続けた。ウェールズ南東部のシルレス族、次いで北部のオルドウィケス族のもとで、山と谷を使った奇襲を重ねた。故郷から遠い土地の部族が彼を指導者に迎えたのは、ローマに抗う者としての名声がすでに島じゅうに広まっていたからだろう。総督オストリウス・スカプラは、征服地の部族から武器を取り上げ、軍団の基地を西へ進めて、彼を追い詰めていった。

51年、カラタクスは険しい丘に石を積んで陣を構え、正面から戦うことにした。場所はウェールズとイングランドの境のどこかとされるが、特定されていない。タキトゥスによれば、彼は陣の間を回って、この日が自由の始まりか永遠の隷属の始まりかを決めると兵に説いた。しかしローマ軍は盾を組んで石垣を越え、ブリトン人の陣は崩れた。妻と娘が捕まり、兄弟も降った。

カラタクス自身は北へ逃れ、ブリガンテス族の女王カルティマンドゥアのもとに身を寄せた。だが、ローマと手を結んで国を保っていた女王は、彼を鎖につないでローマ側に引き渡した。

ローマでは、捕らえられたブリトンの王を見ようと人々が集まった。家臣と家族が引かれていくなか、カラタクスだけは顔を上げ、皇帝の前で語った。タキトゥス『年代記』が伝える演説はこうである。もし私が家柄と地位にふさわしい慎みをもって勝ちを収めていたら、捕虜ではなく友としてこの都に来ていただろう。私に馬も兵も武器も富もあったのだから、それを失いたくなかったのは当然だ。あなた方が世界を支配したいからといって、世界がそれを喜んで受け入れるはずがあろうか。私を殺せばすぐに忘れられる。生かせば、あなたの寛大さの永遠の証しになる。クラウディウスは彼と家族を赦し、鎖を解かせた。この演説はタキトゥスが整えたもので、言葉どおりに語られたとは限らない。

タキトゥス『年代記』に関わる図版:Tacitus, Annales XI-XVI, editio princeps, ca. 1471-72, incipit
タキトゥス『年代記』Wikimedia Commons Tacitus · Public domain

3世紀のカッシウス・ディオは別の言葉を伝える。赦されたあとローマの街を歩いたカラタクスは、その壮麗さに驚き、「これほど多くのものを持ちながら、なぜ我々の粗末な小屋まで欲しがるのか」と言ったという。

その後の消息は分からない。ローマで余生を送ったとみられるが、いつどこで死んだのかを記す史料はない。ローマ軍がブリタニアで手こずったのは彼で終わりではなかった。10年後の60年、東部のイケニ族の女王ブーディカが立ち上がる(ブーディカの反乱)。ウェールズでは、彼はカラドッグの名で伝説の英雄になった。19世紀のイギリスでは、ローマに屈しなかった古代のブリトン人として好まれ、ロンドンの市長公邸に彫像が置かれ、エルガーはカンタータ『カラクタクス』を書いた。かつての征服される側が、帝国の時代には国の誇りとして呼び戻された。

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