ローマの建国
概要
伝承ではロムルスがBC753年に建国したとされるが、考古学的には紀元前8世紀の集落の統合としか言えない。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
ローマ人が語り継いだ建国の物語は、トロイアから始まる。トロイア戦争で滅んだ町から、英雄アエネアスが逃れてイタリアにたどり着いた。その子孫がアルバ・ロンガという町の王家になる。この部分は、のちにウェルギリウスが叙事詩『アエネイス』(ウェルギリウス『アエネイス』)に歌い上げた。
何代か後、アルバ・ロンガの王位を弟のアムリウスが兄から奪った。アムリウスは兄の娘レア・シルウィアを、子を産ませないために巫女にした。ところが彼女は軍神マルスによって双子を身ごもり、ロムルスとレムスが生まれる。アムリウスは双子を籠に入れてティベリス川に流させた。籠は岸に流れ着き、雌の狼が双子に乳を与えて育て、やがて羊飼いが拾って育てた。成長した双子は、自分たちの出生を知ってアムリウスを倒し、祖父に王位を返した。

双子は、自分たちが拾われた場所に新しい町を作ることにした。だが、どちらが町の名を付け、治めるかで争いになる。二人は鳥占いで決めることにし、ロムルスはパラティヌスの丘に、レムスはアウェンティヌスの丘に立った。レムスが先に6羽の鳥を見たが、ロムルスはその後で12羽を見た。ロムルスはパラティヌスに町の境界の溝と壁を巡らせはじめる。レムスがそれをあざけって飛び越えると、ロムルスは弟を殺した。これからこの壁を越える者は誰でもこうなる、と言ったと歴史家リウィウスは伝えている。建国の物語が兄弟殺しから始まる例は珍しい。
物語はさらに続く。新しい町には男ばかりが集まったため、ロムルスは近くのサビニ人を祭りに招き、その娘たちを奪った。怒ったサビニ人との戦いは、娘たちが両軍のあいだに割って入って止め、二つの民は一つになった、という。ロムルスの後、ローマは7人の王に治められ、最後の王タルクィニウス・スペルブスが追放されて、共和政が始まる(タルクィニウスの追放(王政の廃止))。

建国の年を紀元前753年とし、日付を4月21日とするのは、紀元前1世紀の学者ウァロの計算に基づく。ウァロは、王たちの在位年数などを積み重ねて逆算したとされる。それより前の歴史家たちは、紀元前748年、紀元前729年など、それぞれ違う年を挙げていた。ギリシアの歴史家の中には、カルタゴと同じ紀元前814年とする者もいた。つまり、ローマ人自身も、自分たちの町がいつ建ったのかを本当には知らなかった。4月21日は、もともと牧人の神の祭りパリリアの日で、それが建国の日と重ねられた。
ローマ人は、年を数えるのにふだんは、その年の二人の執政官の名を使った。「建国から何年」という数え方は、歴史家が歴史を書くときや、建国の記念の祭りのときに使われた。リウィウスの歴史書の題は『建国以来の歴史』である。紀元248年には、皇帝のもとで建国千年の祭りが盛大に祝われた。

発掘で分かることは、伝承とは少し違う。パラティヌスの丘からは、紀元前8世紀ごろの木の柱で建てた小屋の跡が見つかっている。ローマ人はのちの時代まで、丘の上に「ロムルスの小屋」と呼ぶ粗末な小屋を大切に保存していた。周りの丘、カピトリヌスやエスクイリヌスなどにも、同じころの集落や墓地があった。丘のあいだの低地は湿地で、ここが墓地として使われていた時期もある。
紀元前7世紀ごろになると、低地の水が抜かれ、土が盛られて、そこが人々の集まる広場、フォルムになっていく。いくつもの丘の村が、一つの町にまとまっていったのである。建国というより、統合と呼ぶ方が実態に近い。北のエトルリア人の都市(エトルリアの都市国家)の影響も大きく、ローマの最後の三人の王はエトルリア系だったと伝えられる。1980年代には、パラティヌスの丘のふもとで紀元前8世紀半ばの壁の跡が見つかり、伝承の壁と結びつける研究者もいるが、この解釈には異論が多い。

ローマの象徴として知られる、双子に乳を与える雌狼の青銅像は、長く古代のエトルリアの作品とされてきた。だが2000年代の調査で、狼の像そのものが中世に作られた可能性が指摘されている。双子の像は、15世紀に付け加えられたものである。
それでも、伝承の日付は捨てられていない。ローマ人自身がその日付で自分たちの歴史を数え、その物語で自分たちが何者であるかを語ってきたからである。いまもローマでは、4月21日が「ローマの誕生日」として祝われている。