人物

コンスタンティヌス1世

Constantinus I
AD272年頃 – 337年5月22日(享年65・推定)
ローマ帝国重要度 5

概要

キリスト教を公認し、ビザンティウムに新都を築いた。帝国の重心が東へ移る。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(5)

ミルウィウス橋の戦いAD312年10月28日 · 勝者ミラノ勅令AD313年 · 発布ニケーア公会議AD325年 · 招集コンスタンティノープル遷都AD330年 · 当人コンスタンティヌスの洗礼と死AD337年5月22日 · 皇帝

本文

272年頃、ローマ帝国のバルカン半島の町ナイッススに生まれた。いまのセルビアのニシュである。父のコンスタンティウスは軍人として出世していく人で、母のヘレナは身分の低い出だった。宿屋の娘だったとも伝えられる。父はのちに、出世のために正式な結婚の相手として皇帝の義理の娘を迎え、ヘレナとは別れている。

その頃の帝国は、ディオクレティアヌスが作った四人の皇帝の分担統治のもとにあった。正帝が二人、副帝が二人で、広い帝国を分けて守る。父は西の副帝になり、若いコンスタンティヌスは東の宮廷に置かれて育った。軍の将校として戦場に出る一方、父が裏切らないための人質の意味もあったと考えられている。303年からのディオクレティアヌスの大迫害は、彼が宮廷にいるあいだに始まった。

ディオクレティアヌスの大迫害に関わる図版:Flagellation St Erasmus Crypta Balbi
ディオクレティアヌスの大迫害Wikimedia Commons Public domain

305年、ディオクレティアヌスが自ら退位した。副帝たちが正帝に昇り、新しい副帝が選ばれたが、コンスタンティヌスは選ばれなかった。彼は東の宮廷を抜け出し、ブリタンニアで戦っていた父のもとへ向かう。翌306年、父がいまのイングランドのヨークで死ぬと、兵士たちはその場でコンスタンティヌスを皇帝に推した。

副帝の子として軍に擁立され、18年かけて競争相手を一人ずつ倒して単独の皇帝になった。分担統治の仕組みは、引退した皇帝の思惑どおりには続かず、何人もの皇帝が並び立って争う内戦になった。

312年、イタリアを押さえていたマクセンティウスを討つため、アルプスを越えてローマに迫った。10月28日、ティベル川に架かるミルウィウス橋の戦いで勝ち、マクセンティウスは川で溺れて死んだ。

ミルウィウス橋の戦いに関わる図版:Battle of the Milvian Bridge by Giulio Romano, 1520-24
ミルウィウス橋の戦いWikimedia Commons Giulio Romano · Public domain

ミルウィウス橋の戦いの前に、空に十字の徴と「これにて勝て」の文字を見たと語っている。その証言はエウセビオスが本人から聞いたとして記録した。ただしエウセビオスがこの話を書いたのは皇帝の死後で、同じ時代の別の著述家ラクタンティウスは、夢の中でキリストの印を盾に描くよう告げられたと書いている。話は食い違っている。政治的な計算を見る研究者も多い。

翌313年、東の皇帝リキニウスと会談し、キリスト教を含むすべての宗教の自由を認めることで合意した。これがミラノ勅令と呼ばれるものである。迫害の時代は終わった。

ミラノ勅令に関わる図版:Constantine Chiaramonti Inv1749
ミラノ勅令Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

キリスト教を公認し、教会に財産を認め、司教に裁判権を与えた。ローマにはラテラノの大聖堂を、のちには聖ペテロの墓の上に最初の大聖堂を建てさせた。日曜日を休日と定めたのも彼である。一方で、伝統の宗教の最高神官の地位も保ち、硬貨にはしばらく太陽神の姿が刻まれ続けた。ローマに建てられた凱旋門には、キリスト教の印は見えない。どこまで信仰があり、どこからが統治の計算だったのかは、決めにくい。

324年、リキニウスとの戦いに勝ち、帝国の唯一の皇帝になった。リキニウスは命を助けると約束されたが、翌年殺されている。

ガレリウスの頭像
ガレリウスの頭像Wikimedia Commons Shinjirod · CC BY 3.0

自身が洗礼を受けたのは死の床でだった。当時、洗礼後の罪は重いとされたためになる。

325年、ニケーア公会議を召集し、教義の統一を図った。キリストは父なる神と同じ本質を持つのか、神に造られたものなのか、という論争が、東方の教会を割っていた。皇帝は自ら会議に臨み、300人ほどの司教が集まって、キリストは父と同じ本質だとする信条を定めた。復活祭の日を決める決まりもこの会議で話し合われた。信仰の中身を皇帝が裁定する形が、ここで始まる。

ニケーア公会議に関わる図版:Μιχαήλ Δαμασκηνός - Α΄ Οικουμενική Σύνοδος 7741
ニケーア公会議Wikimedia Commons C messier · Public domain

翌326年、長男のクリスプスを処刑させ、続いて皇后ファウスタも死なせた。ファウスタは浴室で熱湯の蒸気によって死んだと伝えられる。理由は記録が乏しく、不倫の告発があったとも、後継をめぐる争いだったともいわれるが、分かっていない。同じ頃、老いた母ヘレナが聖地エルサレムへ巡礼し、キリストの墓とされる場所に聖墳墓教会が建てられた。

新都を築き、帝国の重心を東へ移した。ボスポラス海峡に臨むギリシア人の古い町ビザンティオンを大きく広げ、330年5月11日に新しい都として捧げた(コンスタンティノープル遷都)。ヨーロッパとアジアの境にあり、三方を海に守られ、東の国境にも近い町だった。その都は自分の名で呼ばれることになる。コンスタンティノポリス、コンスタンティヌスの町である。

マクセンティウスの胸像
マクセンティウスの胸像Wikimedia Commons shakko · CC BY 3.0

経済では、品質の安定したソリドゥス金貨を作った。この金貨は、のちの東ローマ帝国で700年近く価値を保ち、地中海の交易を支えた。

337年、ペルシアへの遠征を準備していたさなかに病に倒れ、ニコメディアの近くで洗礼を受けた(コンスタンティヌスの洗礼と死)。5月22日に死に、65歳前後だった。洗礼を授けた司教は、ニケーアで退けられた側に近い考えの人だった。遺体は新都の聖使徒教会に葬られた。十二使徒の記念碑に囲まれた13番目の場所で、自分を使徒と並ぶ者と考えていたことがうかがえる。

コンスタンティウス2世像
コンスタンティウス2世像Wikimedia Commons Jebulon · CC0

死後まもなく、息子たちを除く親族の男子の多くが兵に殺された。生き残った甥の一人が、のちに伝統の神々への信仰を取り戻そうとするユリアヌスである。

8世紀ごろには、コンスタンティヌスが教皇に西方の支配権を譲ったとする文書が作られた。中世の教皇権を支えたが、15世紀に人文学者ロレンツォ・ヴァッラによって偽書と証明された。正教会では、使徒に等しい聖人として祀られている。彼の建てた都は、1453年のコンスタンティノープル陥落まで、東ローマ帝国の都として千年余り続いた。

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