人物

マクシミヌス・トラクス

Maximinus Thrax
AD173年 – AD238年(享年65・推定)
ローマ帝国重要度 3

概要

トラキアの羊飼い。身長2メートル40と伝える。セウェルスの下で兵に。235年、兵がアレクサンデルを殺して担いだ。元老院に来なかった。ローマに来なかった。ゲルマニアで戦い、税を上げ、238年にアフリカとローマが反乱。アクイレイアを囲んで、自分の兵に殺された。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

軍人皇帝時代の始まりAD235年 · 兵に担がれた

本文

マクシミヌスは、173年頃、バルカン半島のトラキアの農村に生まれたとされる。「トラクス(トラキア人)」はその出身を示す渾名である。前半生について最も詳しく語るのは、後代の伝記集『ヒストリア・アウグスタ』だが、この本は作り話が多いことで知られる。それによれば、父はゴート人、母はアラン人で、少年の頃は羊飼いだった。同時代の歴史家ヘロディアヌスも、彼がトラキアの半ば蛮族の生まれで、若い頃は羊飼いだったと書いている。

マクシミヌス・トラクスの胸像(カピトリーノ美術館)
マクシミヌス・トラクスの胸像(カピトリーノ美術館)Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

伝えられる彼の体格は、伝説めいている。『ヒストリア・アウグスタ』は、身長は8フィートを超え(2メートル40センチほど)、妻の腕輪を指輪にし、1日に肉を40ポンド、ぶどう酒を7ガロン平らげた、と書く。数字はとても信じられないが、彼が並外れた巨体と怪力の持ち主だったことは、同時代の記録も認めている。貨幣に残る横顔は、突き出た大きな顎と額を持ち、近年はこれを成長ホルモンの過剰による巨人症や末端肥大症の徴候とみる説もある。

『ヒストリア・アウグスタ』によれば、皇帝セプティミウス・セウェルスがトラキアで祭りの競技を催したとき、若いマクシミヌスは兵士たちと相撲を取って次々と16人を投げ倒し、さらに馬で駆ける皇帝のあとを走ってついて行ったので、皇帝に見込まれて騎兵に取り立てられたという。真偽はともかく、彼は一兵卒から叩き上げ、セウェルス朝の歴代の皇帝のもとで昇進を重ねた。百人隊長から軍団の指揮官の地位に上り、セウェルス・アレクサンデルの治世には、ライン川の前線で新兵の訓練を任されていた。

マクシミヌス・トラクスの肖像(ニー・カールスベルク・グリプトテク)
マクシミヌス・トラクスの肖像(ニー・カールスベルク・グリプトテク)Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

セウェルス・アレクサンデルは、若くして即位し、母ユリア・ママエアの強い影響下にあった皇帝だった。235年、ゲルマン人の部族がライン川を越えて侵入すると、皇帝は戦うよりも金を払って和平を買おうとした。給料や略奪の機会を期待していた兵士たちは怒った。3月、マインツの近くの陣営で、兵士たちはマクシミヌスに皇帝の紫の衣を着せ、天幕にいたアレクサンデルと母を殺した。

こうして、元老院議員でも騎士身分の高官でもない、一兵卒上がりの男が初めて皇帝になった。元老院は彼を皇帝と認めたが、マクシミヌスは3年の治世の間、一度もローマに足を運ばなかった。元老院に顔を出すこともせず、前線にとどまって戦い続けた。

戦いの面では、彼は有能だった。236年にかけてライン川を越えてゲルマニアの奥深くまで攻め込み、沼地の戦いでは自ら馬で泥の中に乗り入れて戦ったとヘロディアヌスは書く。2008年、ドイツ中部のハルツ山地の近くで、3世紀前半のローマ軍の戦場の跡が見つかり、大きな話題になった。ライン川からはるか東のこの地で、ローマ軍がゲルマン人と戦っていたことが確かめられたのである。この戦いは、マクシミヌスの遠征に関わるものと考えられている。その後、彼はドナウ川の流域に移り、ダキア人やサルマタイ人と戦った。

だが戦争には金が要った。兵士の給料を倍にすると約束していたマクシミヌスは、富裕な人びとの財産を没収し、密告を奨励し、ついには都市が穀物を買うための基金や、神殿の奉納品にまで手をつけた。エウセビオスの『教会史』によれば、彼は前の皇帝の家に仕えたキリスト教の指導者たちを迫害し、ローマの司教がサルデーニャの鉱山に流されたのもこの頃である。ただしそれは、のちのデキウスの迫害のように帝国全体で信仰を問うものではなかった。元老院と都市の有力者たちの憎しみは、日に日に募っていった。

デキウスの迫害に関わる図版:Byzantine icon St-Mercurius 1295
デキウスの迫害Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

238年の初め、北アフリカの町テュスドルスで、重い取り立てに苦しむ地主たちが徴税の役人を殺し、80歳近いアフリカ総督ゴルディアヌスを皇帝に担ぎ上げた。ゴルディアヌスは息子を共同皇帝とし、元老院は待っていたかのようにこれを承認して、マクシミヌスを国家の敵と宣言した。ゴルディアヌス父子は、隣のヌミディアの総督の軍に攻められて、わずか20日ほどで死んだ。それでも元老院は退かず、議員の中から二人の皇帝を選び、ゴルディアヌスの孫の少年を副帝として、マクシミヌスとの戦いに臨んだ。この年、238年は、6人もの皇帝が現れた年として知られる。

マクシミヌスは軍を率いてイタリアに入った。ところが、アルプスを越えてすぐのアクイレイアの町が門を閉じて抵抗した。周りの土地は物資が運び出されて空になり、包囲する側の兵が飢え始めた。長引く包囲の中で、兵士たちの不満は皇帝に向かった。238年の春、ローマ近郊に家族を残していた第2パルティカ軍団の兵士たちが、昼の休息の時を狙って天幕に押し入り、マクシミヌスと息子のマクシムスを殺した。親子の首はローマに送られ、市民は歓喜したという。60代の半ばだったとみられる。

マクシミヌスの即位から、ローマは「軍人皇帝の時代」と呼ばれる半世紀に入った(軍人皇帝時代の始まり)。284年にディオクレティアヌスが即位するまでの約50年間に、正式に認められた皇帝だけで20人を超え、その多くは戦場か陰謀で命を落とした。皇帝を作るのは元老院でも血筋でもなく、前線の軍団だった。セウェルスが息子たちに遺した「兵士を富ませよ」という言葉は、こうして行き着くところまで行ったのである。

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