クレオパトラの死

概要
プトレマイオス朝が終わり、エジプトはローマの属州になった。死の日付には異説がある。
場所
31.20°N 29.92°E · エジプト
関わった人(1)
クレオパトラ7世BC69年–BC30年8月12日(10日説あり) · 当人本文
紀元前31年9月、ギリシアの西岸のアクティウムの沖で、マルクス・アントニウスとクレオパトラ7世の艦隊は、オクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)の艦隊に敗れた(アクティウムの海戦)。二人は戦いの途中で戦場を離れ、エジプトのアレクサンドリアへ逃れた。
翌紀元前30年の夏、オクタウィアヌスの軍がエジプトに迫った。アントニウスの艦隊と騎兵は戦わずにオクタウィアヌスの側へ寝返り、8月1日、オクタウィアヌスはアレクサンドリアに入った。クレオパトラは、宮殿の近くに建てていた自分の霊廟に財宝とともに閉じこもった。霊廟に火をつけて財宝ごと焼き払う、と脅すこともできた。

プルタルコス(プルタルコス)の伝えるところでは、クレオパトラが死んだという知らせを受けたアントニウスは、剣で自分の腹を突いた。ところがクレオパトラはまだ生きていた。瀕死のアントニウスは霊廟に運ばれ、扉を開けようとしないクレオパトラと侍女たちの手で、窓から綱で引き上げられて、クレオパトラの腕の中で息を引き取った。
その後まもなく、クレオパトラはオクタウィアヌスの部下に捕らえられた。オクタウィアヌスは、彼女を生かしてローマへ連れて行き、凱旋式で見せものにしたいと考えていたとされる。かつてカエサルの凱旋式では、クレオパトラの妹がそうして都を引き回されていた。クレオパトラはオクタウィアヌスと面会して、自分と子どもたちの処遇について交渉を試みた。だが、数日のうちに自分がローマへ送られると知ったとき、彼女は死を選んだ。

その日、クレオパトラは沐浴して食事をとり、オクタウィアヌスに手紙を書いて、アントニウスと同じ墓に葬ってほしいと頼んだ。知らせを受けたオクタウィアヌスの使いが駆けつけると、彼女はすでに黄金の寝台の上で、王の装いのまま死んでいた。侍女の一人も足元で息絶え、もう一人のカルミオンが女王の冠を直していた。使いの者が、これは立派なことか、と責めると、カルミオンは、多くの王の末裔にふさわしいことです、と答えて倒れたという。
死に方については、いちじくの籠に隠して運ばせた毒蛇に腕を噛ませた、という話がよく知られている。だがプルタルコス自身が、本当のところは誰も知らない、と書いている。部屋から蛇は見つからず、腕に小さな刺し傷のような跡が二つあっただけだったともいい、髪留めに隠した毒を使ったという説も紹介している。オクタウィアヌスは凱旋式で、蛇に噛まれるクレオパトラの像を運ばせた。蛇の話はそれによって広まったとも考えられる。死んだ日は8月12日とされることが多いが、10日とする説もある。39歳前後だった。
クレオパトラは、ガイウス・ユリウス・カエサルとの間に息子カエサリオンをもうけていた。カエサルの血を引く者は、カエサルの養子として権力を受け継いだオクタウィアヌスにとって危険な存在だった。カエサリオンは捕らえられて殺された。アントニウスとの間の子どもたちは、アントニウスの元の妻でオクタウィアヌスの姉にあたるオクタウィアに引き取られて育てられた。娘のクレオパトラ・セレネは、のちに北アフリカのマウレタニアの王に嫁いでいる。
クレオパトラは、アレクサンドロス大王の死後にその将軍プトレマイオス1世が開いたプトレマイオス朝(プトレマイオス朝)の最後の君主だった。この王家はマケドニア系のギリシア人で、およそ300年にわたってエジプトを治めたが、エジプトの言葉を話したのは、クレオパトラが王家で初めてだったとプルタルコスは書いている。彼女の死とともに、アレクサンドロスの遠征から生まれたヘレニズムの王国は、最後の一つが姿を消した。
エジプトは、ローマの他の属州とは違う扱いを受けた。オクタウィアヌスは、元老院の議員ではなく騎士身分の長官を送ってエジプトを治めさせ、元老院の議員が許しなくエジプトに入ることを禁じた。ナイルの穀倉は、ローマ市民の食料の大きな部分をまかなっていた。それを野心のある元老院議員に握らせないためである。
3年後の紀元前27年、オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥスの称号を受け、事実上の初代皇帝となる。8月を意味するラテン語の月の名が、のちに彼の名から「アウグストゥス」に改められたのは、この月に彼がアレクサンドリアを手に入れたことなどにちなむとされる。