人物

ルキウス・ユニウス・ブルトゥス

Lucius Junius Brutus
? – BC509年
ローマ重要度 4

概要

「愚か者」を装って王の下で生き延びた。ルクレティアの遺体から短剣を抜き、王の追放を誓わせた。最初の執政官。息子二人が王と通じ、自分が処刑を見届けた。王の息子と一騎打ちで刺し違えて死んだ。カエサルを殺したブルトゥスは自分をその子孫と信じた。

所属

ローマ

関わったできごと(1)

タルクィニウスの追放(王政の廃止)BC509年(伝承) · 追った

本文

ルキウス・ユニウス・ブルトゥスの物語は、ローマの歴史家リウィウスの『ローマ建国以来の歴史』などによって伝えられている。リウィウスが書いたのは事件から500年近くのちのアウグストゥスの時代で、当時の確かな記録はほとんど残っていない。ここに書くことの多くは、ローマ人自身が自分たちの共和政の始まりとして語り継いだ伝承である。

カピトリーノのブルトゥス像(当初ルキウス・ブルトゥスの胸像とされた紀元前4〜3世紀初頭の青銅像)
カピトリーノのブルトゥス像(当初ルキウス・ブルトゥスの胸像とされた紀元前4〜3世紀初頭の青銅像)Wikimedia Commons Jastrow · Public domain

ブルトゥスの母は、ローマの7代目の王、タルクィニウス・スペルブス(傲慢王タルクィニウス)の姉妹だったとされる。タルクィニウスは前の王を殺して位を奪い、元老院の有力者を次々と殺して恐怖で国を治めた。ブルトゥスの兄も王に殺されたと伝えられる。若いブルトゥスは、身を守るために愚か者のふりをした。財産にも名誉にも関心が無いように見せかけ、王に警戒されないようにしたのである。ブルトゥスというあだ名は「愚鈍な者」を意味する。

あるとき、王の二人の息子がギリシアのデルフォイへ神託を伺いに行くことになり、ブルトゥスは笑い者の付き添いとして同行した。彼は神殿に、木の杖を供えた。だがその杖の中はくりぬかれ、黄金が詰められていた。愚かなふりの下に才を隠している自分自身のたとえだったとリウィウスは書く。王子たちが、次にローマの王になるのは誰かと神託に尋ねると、最初に母に口づけした者がローマの最高の権力を握るだろう、という答えが返ってきた。王子たちがどちらが先に母に口づけするかをくじで決めようとしている間に、ブルトゥスはつまずいたふりをして地面に倒れ、大地に口づけした。大地こそ、すべての人の母だからである。

Ignaz Franz Platzer作『ルクレティアの遺体に復讐を誓うブルトゥス』。
Ignaz Franz Platzer作『ルクレティアの遺体に復讐を誓うブルトゥス』。Wikimedia Commons schurl50 ( User:schurl50 ) · Public domain

転機は王の息子セクストゥス・タルクィニウスの暴行事件だった。セクストゥスは、親族のコッラティヌスの妻で、貞淑で知られたルクレティアの家に客として泊まり、夜、剣で脅して彼女を辱めた。ルクレティアは父と夫を呼び寄せた。夫はブルトゥスを伴って駆けつけた。ルクレティアは起きたことをすべて語り、復讐を誓わせると、隠し持っていた短剣で自らの胸を刺して死んだ。

人々が嘆き悲しむ中、ブルトゥスはルクレティアの胸から血に濡れた短剣を引き抜き、それを掲げて誓った。この血にかけて、傲慢王タルクィニウスとその妻と子らを、剣と火とあらゆる力をもって追い払い、今後、誰であれローマで王となることを許さない、と。居合わせた者たちは、愚か者だと思っていたブルトゥスの変わりように驚きながら、同じ誓いを立てた。

ジャック=ルイ・ダヴィッドの『ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち』。ルーヴル美術館所蔵。
ジャック=ルイ・ダヴィッドの『ブルートゥス邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち』。ルーヴル美術館所蔵。Wikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

ブルトゥスはルクレティアの遺体を広場に運び、人々を集めて、王の一族の罪を訴えた。人々は立ち上がり、王が戦いのために都を離れている間に、ローマの門は王に対して閉ざされた。王と一族は追放された(タルクィニウスの追放(王政の廃止))。伝承では紀元前509年のことである。王の代わりに、民会が毎年2人の執政官を選び、1年ごとに交代させることになった。最初の執政官に選ばれたのは、ブルトゥスとルクレティアの夫コッラティヌスだった。

だがコッラティヌスは、追放された王と同じタルクィニウスの家の名を持っていた。人々の疑いを感じたブルトゥスは、同僚に職を退いてローマを去るよう求め、コッラティヌスはそれに従った。後任にはウァレリウスが選ばれた。

ブルトゥスの誓い(フランソワ=ジョゼフ・ナヴェ画)
ブルトゥスの誓い(フランソワ=ジョゼフ・ナヴェ画)Wikimedia Commons François-Joseph Navez · Public domain

追放された王は、ローマの若い貴族たちを抱き込んで王政を取り戻そうとした。陰謀に加わった者の中に、ブルトゥスの二人の息子、ティトゥスとティベリウスがいた。奴隷の一人が密談を立ち聞きして訴え出て、陰謀は露見した。執政官としてのブルトゥスは、自ら裁きの座に就いた。息子たちは他の者たちとともに柱に縛られ、鞭打たれ、斧で首を落とされた。リウィウスは、ブルトゥスはその間ずっと処刑を見つめ続け、執行の間じゅう、父親としての苦しみが顔に表れていた、と書いている。国家のために自らの息子を罰する父の姿は、ローマ人にとって共和政の厳しさを象徴する場面になった。

王はエトルリアの町々の兵を借りて、ローマに攻め寄せた。アルシアの森での戦いで、騎兵を率いて先頭に立ったブルトゥスは、王の息子アッルンスと正面からぶつかった。二人は互いの槍で相手を貫き、ともに馬から落ちて死んだ。戦いはローマの勝利に終わった。ウァレリウスはブルトゥスのために盛大な葬儀を営み、ローマの女たちは、ルクレティアの仇を討った人として、父を亡くしたときと同じように1年間喪に服したと伝えられる。

ブルトゥス役を演じるエドマンド・キーン(ジェームズ・ノースコート画、1819年)
ブルトゥス役を演じるエドマンド・キーン(ジェームズ・ノースコート画、1819年)Wikimedia Commons James Northcote · Public domain

ブルトゥスは、王を追い出して共和政を開いた人として、ローマ人の記憶の中で特別な位置を占めた。ローマのカピトリウムの丘には、剣を手にしたブルトゥスの像が立てられていたという。今日ローマのカピトリーニ美術館にある青銅の男性の頭部は「ブルトゥス」と呼ばれているが、本当にブルトゥスを表したものかは分からない。

それから450年あまりのち、紀元前44年、マルクス・ユニウス・ブルートゥスは、王のように権力を握ったガイウス・ユリウス・カエサルを元老院で刺した(カエサル暗殺)。マルクスは自分を、王を追ったブルトゥスの子孫だと信じていた。息子たちが処刑されてブルトゥスの家は絶えたはずだと疑う声もあったが、カエサルの独裁が強まると、ブルトゥスの像の台座や、法務官だったマルクスの席には、ブルトゥスよ、お前は眠っているのか、といった落書きが書かれたという。

カエサル暗殺に関わる図版:Vincenzo Camuccini - La morte di Cesare (cropped 3-2)
カエサル暗殺Wikimedia Commons Vincenzo Camuccini · Public domain

中世のダンテは『神曲』の中で、王を追ったルキウスを、キリスト教を知らずに死んだ高潔な人々のいる場所に置き、カエサルを刺したマルクスを地獄の最も深いところに、イエスを裏切ったユダとともに置いた。1789年、フランスの画家ダヴィッドは、処刑された息子たちの遺体が運び込まれるのを背にして座るブルトゥスを描いた。この年、フランス革命が始まり(フランス革命)、4年後、フランスは自分たちの王を処刑した。

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