カルタゴ滅亡

概要
第三次ポエニ戦争の末、市は破壊され住民は売られた。地中海西部にローマの敵はいなくなった。
場所
36.85°N 10.32°E · チュニジア・チュニス県
関わった人(1)
小スキピオBC185年(BC184年説あり)–BC129年 · ローマ側 · 総指揮本文
カルタゴは、すでに牙を抜かれた国だった。第二次ポエニ戦争に敗れたあと、紀元前201年の講和で艦隊は10隻に限られ、戦象を手放し、銀1万タラントンの賠償を50年かけて払うことになった。何より重かったのは、ローマの許しなしにはアフリカの中でさえ戦争ができない、という条項である。
隣のヌミディア王マシニッサは、この条項を利用した。カルタゴの領地を少しずつ奪い、カルタゴが訴えても、ローマの調停はたいていヌミディアに有利に終わる。それでもカルタゴは商業で立ち直り、賠償を前倒しで払うと申し出るほど豊かになった。ローマの一部には、その回復ぶりそのものが脅威に映った。

その代表が大カトーである。紀元前150年代に使節としてカルタゴを訪れた大カトーは、その繁栄に驚いて帰ったという。元老院で、カルタゴ産の見事なイチジクを衣の中から取り出し、これが3日の航海の先で実っているのだと示した、という話が伝わる。どんな議題でも演説の終わりに「カルタゴは滅ぼされるべきだ」と付け加えたという逸話も有名だが、よく知られたラテン語の決まり文句の形は後世に整えられたものとされる。
反対した者もいた。大スキピオの娘婿にあたるスキピオ・ナシカは、ローマには恐れる相手が必要で、敵がいなくなれば内側から緩んでいくと論じたと伝えられる。のちに歴史家サルスティウスも、カルタゴが消えたあとローマの風紀が崩れたと書いた。

口実は紀元前151年にできた。マシニッサの侵入に耐えかねたカルタゴが、ついに自ら兵を出して戦い、敗れたのである。条約違反である。紀元前149年、ローマは宣戦した。カルタゴの近くにある古い港町ウティカは、いち早くローマ側に寝返り、ローマ軍に上陸の足場を差し出した。カルタゴは無条件の服従を申し出て、貴族の子ども300人を人質に送り、大量の武器と攻城兵器も引き渡した。そのうえで告げられた最後の要求は、市を捨てて海から約15キロ内陸へ移れ、というものだった。海の商業で生きてきた市に、それは死ねと言うのと同じだった。
カルタゴは拒み、武器を持たないまま戦う道を選んだ。神殿も公共の建物も工房に変えて、昼夜を問わず武器を作った。女たちが髪を切って投石機の綱にしたと伝えられる。三重の城壁に守られた市は、ローマの執政官たちの攻撃を2年にわたって退けた。

戦況を変えたのが小スキピオだった。大スキピオの長男の養子に入った人物で、紀元前147年、規定の年齢に達していないのに、民会の熱狂に押されて執政官に選ばれた。小スキピオは港の入り口を堤防でふさぎ、海からの補給を断った。カルタゴ側は別の水路を掘り抜き、急ごしらえの船団で打って出たが、封鎖を破ることはできなかった。
紀元前146年の春、ローマ軍は港の側から市内に突入した。城塞のあるビュルサの丘へ向かう狭い街路で、6日にわたる市街戦が続いたとされる。家々は一軒ずつ奪われ、火が放たれた。7日目、丘に逃げ込んでいた人々が降伏し、男女合わせて5万人ほどが奴隷として売られた。もとは数十万の人口があったと言われる市の、生き残りである。最後まで抵抗した将軍ハスドルバルが命乞いをすると、その妻は夫をなじり、子どもとともに燃える神殿に身を投げた、と古代の史家は書いている。
市は徹底的に壊され、跡地には住むことも耕すことも禁じられた。周辺はローマの属州アフリカとなり、属州の中心はローマについたウティカに置かれた。同じ年、ギリシアではコリントスもローマに破壊されている。地中海の西にも東にも、ローマに対抗できる国はいなくなった。
跡地に塩を撒いたという話は、古代の史料には見えない。近代になって広まった話とされる。

遺跡は、いまのチュニジアの首都チュニスの郊外に残っている。かつての軍港の円い形は、水をたたえた池として今も地上から見分けられる。ビュルサの丘の発掘では、紀元前146年の火災で崩れ落ちた家々の層が見つかり、古代の史家が書いた市街戦の激しさを裏付けた。遺跡は1979年に世界遺産に登録された。1985年には、ローマ市長とカルタゴ市長が、2000年以上前の戦争に区切りをつける象徴的な友好の文書に署名している。
燃える市を前に、小スキピオは涙を流し、ホメロスの「聖なるイリオスが滅びる日がいつか来るだろう」という一節を口にしたという。そばにいたポリュビオスが、何を思っているのかと尋ねると、いつか自分の祖国にも同じ運命が来るのではないかと恐れている、と答えた。ポリュビオスはギリシアの政治家で、人質としてローマに送られたのち小スキピオの師であり友となり、この戦いにも同行していた。この場面は、ポリュビオスの記述を引いた後世の史家によって伝えられている。
カルタゴの名は消えなかった。100年ほどのち、ガイウス・ユリウス・カエサルが植民市の建設を計画し、アウグストゥスの時代にローマの都市として建て直される。それはやがてアフリカ屈指の大都市になり、5世紀にはガイセリックのカルタゴ占領で、ヴァンダル王国の都にもなった。