人物

大カトー

Marcus Porcius Cato
BC234年 – BC149年(享年85・推定)
共和政ローマ重要度 4

概要

「カルタゴは滅ぼされるべきである」と説き続け、第三次ポエニ戦争を導いた政治家。

別名

カトー・ケンソリウス、監察官カトー

所属

共和政ローマ

関わったできごと(2)

カルネアデスのローマ訪問BC155年 · 追い出したポリュビオス『歴史』BC140年頃 · 同時代人

本文

マルクス・ポルキウス・カトーは紀元前234年、ローマの南東にある町トゥスクルムに生まれた。曾孫にあたる同名の政治家と区別して、大カトーと呼ばれる。家は代々の農民で、父祖に元老院議員はいない。少年時代はサビニ地方にある父の農地で、奴隷とともに畑を耕して育った。赤毛で灰色の目をしていたと、プルタルコスの伝記は伝えている。

Patrizio Torlonia
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17歳ごろ、ハンニバル・バルカがイタリアに侵入した第二次ポエニ戦争に兵として加わった。体じゅうに傷を受けながら戦い、敵の前でも大声で叫んで相手をすくませたという。戦場の合間には故郷の農地に戻って、自分で働いた。近所に住む名門の貴族ルキウス・ウァレリウス・フラックスが、この若者の弁論の才と勤勉さに目をとめ、ローマに出て政治の道に進むよう勧めた。後ろ盾を得たカトーは、名門の出でない「新人」として官職の階段を上っていった。

紀元前204年、財務官として大スキピオの遠征に加わったが、兵への気前のよい振る舞いを浪費だと非難して、早くも衝突している。これがスキピオ家との生涯の確執の始まりになった。紀元前195年に執政官となり、ヒスパニアに赴いて反乱を鎮め、多くの町の城壁を取り壊させた。紀元前191年、ギリシアのテルモピュライでセレウコス朝のアンティオコス3世と戦ったときは、軍団の副官として山道を回り込み、勝利に貢献した。

ペルジーノの描いた大カト1497年頃 ペルージャのプリオリ宮内
ペルジーノの描いた大カト1497年頃 ペルージャのプリオリ宮内Wikimedia Commons Pietro Perugino · Public domain

カトーがもっとも力を注いだのは、ローマの古い気風を守ることだった。贅沢と、新しく入ってきたギリシア風の教養や暮らしぶりが、質実なローマ人を堕落させると考えた。紀元前184年、フラックスとともに監察官に選ばれると、その権限を存分に使った。監察官は市民の財産を調べて等級を決め(ローマのケンスス)、元老院の名簿を作り直す役である。カトーは元老院から7人を除名し、その中には執政官を務めた有力者も含まれていた。宝石や衣装、豪華な馬車や若い奴隷には実際の値の10倍の評価をつけて税を課した。水道から私邸へ勝手に水を引く管を切り、公の土地にはみ出した建物を取り壊させた。厳しすぎるという反発は大きかったが、民衆は彼の像を建て、傾きかけたローマを立て直した監察官、と刻んだと伝えられる。カトー・ケンソリウス、監察官カトーという呼び名はここから来ている。

彼は生涯、訴訟と弁論の人だった。自分が訴えられた裁判だけで40回を超えたとされ、スキピオ兄弟を公金の扱いで追及して政界から退かせたのも、カトーの働きかけによる。弁論は短く鋭く、言葉を惜しんだ。「事柄をつかめ、言葉は後からついてくる」という言葉が伝わっている。紀元前155年、アテナイから哲学者カルネアデスらが使節として来て(カルネアデスのローマ訪問)、正義の擁護と否定を日を変えて弁じ、ローマの若者を熱狂させると、カトーは元老院に、使節の用件を早く片づけて国へ帰らせるよう求めた。

大カトーの肖像(胸像)
大カトーの肖像(胸像)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

一方で、カトーはラテン語で書く散文の祖でもある。農場の経営を細かく指示した『農業論』は、まとまって残るラテン語の散文としてもっとも古いものとされる。そこでは、病気や年老いた奴隷は古い農具と同じく売り払うよう勧めていて、プルタルコスはその冷たさを批判している。晩年に書いたローマとイタリアの歴史『起源』は、ギリシア語ではなくラテン語で書かれた最初の歴史書の一つで、戦争の記述に将軍の名を出さず、ローマ人全体の功として書いたという。ギリシア文化を嫌い続けたが、老年になってギリシア語を学んだとも伝えられる。

紀元前153年ごろ、カトーはカルタゴとヌミディア王マシニッサの領土争いを調べる使節として北アフリカへ渡った。ザマの戦いから50年近くたち、多額の賠償金をとうに払い終えたカルタゴは、市場に物があふれ、港には船が並んでいた。ローマに帰ったカトーは、元老院でトガの襞からみずみずしいイチジクを取り出して見せ、これは3日前にカルタゴで摘まれたものだと言った。それほど近くに、それほど豊かな敵がいるという意味である。この話はプルタルコスと大プリニウスが伝えている。

トゥスクルムの劇場遺跡
トゥスクルムの劇場遺跡Wikimedia Commons Luiza Serpa Lopes · Public domain

以後、カトーは元老院で何について意見を述べるときも、最後に、私はまたカルタゴは滅ぼされるべきだと考える、と付け加えたと伝えられる。いまよく知られる「カルタゴは滅ぼされるべきである」という簡潔なラテン語の形は、後世に整えられたものである。元老院にはスキピオ・ナシカのように、競う相手がいてこそローマは緊張を保てるとして、カルタゴを残すべきだと唱える者もいた。カルタゴがマシニッサとの戦いに踏み切って条約に違反したことが口実となり、紀元前149年、ローマは第三次ポエニ戦争を始めた。

カトーはその年のうちに、85歳前後で死んだ。80歳を過ぎてから若い女性と再婚して息子をもうけていた。そのひ孫が、のちにカエサルと争う小カトーである。カルタゴがカルタゴ滅亡で跡形もなく壊されたのは、カトーの死から3年後、小スキピオの手によってだった。質素と規律を説いたカトーは、後のローマ人にとって古き良き共和政の手本となった。同時に、ひとつの都市を滅ぼすことを繰り返し説いた人物としても記憶されている。

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