できごと

アエガテス諸島の海戦

Battle of the Aegates Islands
BC241年3月10日
重要度 5
サハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民セレウコス朝プトレマイオス朝サーミアンティゴノス朝ガリア諸部族カルタゴカルタゴメロエケルト系の人びとPlain-Pottery cultureBrushed Pottery cultureマケドニアカッパドキアカタバーンBell-shaped burials cultureアトロパテネローマナバテア王国ペルガモン王国リュシマコスの王国カッサンドロスの王国Milograd cultureハドラマウトアルメニアEastern Masurian cultureポントス王国ボスポロス王国ブレンミュエスサバア王国ギリシア諸ポリスDamotPomeranian cultureBC241年3月10日アエガテス諸島
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC241年3月10日の版図を描いています(35勢力)。

概要

国庫が空で、富裕な市民が自分の金で200隻を造った。ルタティウス・カトゥルスがシチリアの西で、荷を積んで重いカルタゴの補給艦隊を沈めた。23年の戦争が終わった。シチリアはローマ最初の属州。海底から発見された衝角が2010年代に次々と上がっている。

場所

アエガテス諸島
37.97°N 12.07°E · イタリア・シチリア

本文

紀元前241年3月10日、シチリア島の西の沖に浮かぶアエガテス諸島(いまのエガディ諸島)の近くで、ローマとカルタゴの艦隊がぶつかった。勝ったのはローマで、23年続いた第一次ポエニ戦争はこの一戦で終わった。陸の国だったローマが、地中海の西の海の覇者カルタゴを海で打ち負かし、シチリアを手に入れた戦いである。

戦争は紀元前264年、シチリアの町メッサナをめぐる争いから始まった。カルタゴは何百年も海で交易してきた国で、強力な艦隊を持っていた。ローマは本格的な軍艦をほとんど持っていなかったが、難破したカルタゴの船を手本に大量の五段櫂船を造り、敵の船に橋を落として乗り移る「コルウス(からす)」という仕掛けで、紀元前260年のミュラエの海戦、紀元前256年のエクノモス岬の海戦と、海の戦いを陸の戦いに変えて勝った。

エクノモス岬の海戦に関わる図版:The Naval Battle Near Ecnomus (256 BC)
エクノモス岬の海戦Wikimedia Commons Gabriel de Saint-Aubin · Public domain

しかし、その後のローマの海は災難続きだった。重いコルウスを積んだ船は荒れた海に弱く、嵐で艦隊がまるごと沈むことが何度もあった。紀元前249年には、シチリア西端の港町ドレパナ(いまのトラーパニ)の沖で、執政官クラウディウス・プルケルがカルタゴの艦隊に大敗した。出陣の前に占いの聖なる鶏が餌を食べなかったので、「食べないなら飲ませろ」と海に投げ込んだという話が残る。同じ年、別の艦隊も嵐で失われた。ギリシアの歴史家ポリュビオスによれば、この戦争でローマはおよそ700隻、カルタゴは500隻の大型軍艦を失った。ローマはそれから何年も、まともな艦隊を海に出せなくなった。

陸でも戦いは膠着していた。カルタゴの将軍ハミルカル・バルカはシチリア西部の山に陣取り、ゲリラ戦でローマ軍を悩ませ続けた。カルタゴの拠点リリュバエウム(いまのマルサラ)とドレパナはローマ軍に囲まれていたが、海から補給を受けて持ちこたえていた。ローマが勝つには、もう一度海を取るしかなかった。

エガディ諸島
エガディ諸島Wikimedia Commons Public domain

だが、ローマの国庫は空だった。紀元前243年ごろ、ローマの富裕な市民たちが動いた。一人で、あるいは二人か三人で組んで、自分の金で五段櫂船を1隻ずつ造って国に貸し、戦争に勝ったら費用を返してもらうという約束である。いわば戦争の公債だった。こうして200隻の五段櫂船がそろった。手本にしたのは、かつてリリュバエウムの封鎖を何度もすり抜けて評判になった、「ロドス人」とあだ名されたカルタゴの船長の速い船だった。捕らえたその船の造りをまねて、軽く速い船を造ったのである。重いコルウスは、もう積まれなかったとみられる。

紀元前242年の夏、執政官ガイウス・ルタティウス・カトゥルスがこの艦隊を率いてシチリアに来た。カルタゴは、ローマにもう艦隊は無いと油断して、自分たちの艦隊を本国に引き揚げていた。カトゥルスはリリュバエウムとドレパナの港を海からも封じ、冬のあいだ漕ぎ手と兵を毎日のように訓練した。

トッレ・アルジェンティーナ広場のユートゥルナ神殿の遺跡
トッレ・アルジェンティーナ広場のユートゥルナ神殿の遺跡Wikimedia Commons Adam Carr at English Wikipedia · Public domain

カルタゴは慌てて艦隊を整えた。率いるのはハンノで、船には包囲された味方とハミルカルの軍に届ける穀物や物資が満載されていた。計画では、まずシチリアに荷を降ろし、身軽になってからハミルカルの兵を乗せて戦うつもりだった。ハンノの艦隊はアエガテス諸島に着き、追い風を待って一気にシチリアへ渡ろうとした。

3月10日の朝、強い西風が吹き、海は荒れていた。カルタゴにとっては追い風で、ローマにとっては向かい風である。カトゥルスはためらった。だが、ここで見送れば、カルタゴの船は荷を降ろし、精兵を乗せて戻ってくる。彼は荒れた海を承知で出撃を命じた。カトゥルスはドレパナの攻撃で腿を負傷していて、担架に乗って指揮をとったという伝えもある。実際の指揮は法務官クィントゥス・ウァレリウス・ファルトが執り、のちに二人のあいだで凱旋の栄誉をめぐる争いになった。

トッレ・アルジェンティーナ広場に残るユトゥルナ神殿の遺構。ガイウス・ルタティウス・カトゥルスが戦勝を記念して建立した
トッレ・アルジェンティーナ広場に残るユトゥルナ神殿の遺構。ガイウス・ルタティウス・カトゥルスが戦勝を記念して建立したWikimedia Commons Adam Carr at English Wikipedia · Public domain

戦いは短かった。ローマの船は空荷で軽く、よく訓練された漕ぎ手が乗っていた。カルタゴの船は荷を満載して重く、急いで集めた漕ぎ手と兵は経験が浅かった。ローマの船は次々に衝角で敵の船腹を突いた。ポリュビオスによれば、カルタゴの船50隻が沈み、70隻が乗員ごと捕らえられ、捕虜は1万人近くにのぼった。残りの船は風向きが変わったすきに逃げ去った。ハンノはカルタゴに戻ると、敗戦の責任を問われて十字架にかけられた。

カルタゴにはもう戦う余力が無かった。本国はシチリアのハミルカルに講和の全権を委ねた。ハミルカルとカトゥルスがまとめた条件は、カルタゴがシチリアから全面的に退くこと、捕虜を身代金なしで返すこと、賠償金2200タラントンを20年で払うことだった。ローマの民会はこれを手ぬるいとして、賠償を3200タラントンに増やし、支払いを10年に縮め、シチリアとイタリアのあいだの島々も明け渡させた。ハミルカルは、兵に武器を捨てさせて降伏させることだけは拒み、兵は武器を持ったままシチリアを去った。

シチリアは、ローマが海の外に持った最初の領土になった。島の東部のシュラクサイは同盟国の王の国として残り、残りの土地は、やがて総督が置かれて「属州」として治められるようになる。カルタゴでは、給料を払ってもらえなかった傭兵たちが反乱を起こし(傭兵戦争)、ハミルカルが鎮圧に追われた。その隙にローマは紀元前238年ごろ、カルタゴ領のサルデーニャ島まで奪い取った。ハミルカルはその後スペインに渡ってカルタゴの新しい領土を築き、伝えによれば、9歳の息子ハンニバル・バルカを祭壇の前に立たせ、生涯ローマの友にならないと誓わせた。23年後の第二次ポエニ戦争の種は、アエガテスの海でまかれていた。

戦場となった海の底は、21世紀になって調べられ始めた。2000年代の初めに漁師の網などから引き揚げられた青銅の衝角が手がかりになり、シチリア州の海の文化財の担当者セバスティアーノ・トゥーサと、アメリカの海洋考古学の財団が、レヴァンツォ島の北西の水深80〜100メートルの海底を探査した。これまでに25本を超える青銅の衝角が引き揚げられ、ローマの役人の名を刻んだラテン語の銘を持つものと、ポエニ語の銘を持つカルタゴのものの両方がある。ローマの兵の兜や、運ばれていた壺も見つかっている。文献だけで知られていた戦いの場所が、こうして確かめられた。トゥーサは2019年、航空機事故で亡くなった。引き揚げられた衝角の多くは、ファヴィニャーナ島のかつてのマグロの加工場を改装した展示施設で見ることができる。ポエニ戦争の全体は、物語「物語「ポエニ戦争」」にまとめてある。

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