できごと

ヌマの暦と祭祀

Numa's calendar and priesthoods
BC715年(伝承)
重要度 3
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概要

ロムルスの次の王。サビニ人。10か月の暦に1月と2月を足して12か月にし、神官団と巫女とヤヌスの門を定めた。43年、戦争をしなかったと伝わる。ニンフのエゲリアに夜、教えを受けた。ローマの宗教の形は、この伝説の王に帰される。

場所

ローマ
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州

関わった人(1)

ヌマ・ポンピリウスBC753年(伝承)–BC673年(伝承) · 王

本文

ローマの始まりの伝説(ローマの建国)で、初代の王ロムルスは嵐の中で姿を消したとされる。そのあと元老院は王を立てられず、議員たちが数日ずつ交代で国を預かる空位の期間が、およそ1年続いた。こうした王のいない間の仮の統治は、のちの共和政でも同じ名で受け継がれる。結局、元老院と民は、ローマの外のサビニ人の町クレスから、一人の男を王に迎えた。ヌマ・ポンピリウスである。

ヌマは正義と敬虔で知られた人物とされ、伝承では、ロムルスとともにローマを治めたサビニ人の王タティウスの娘を妻にしていた。のちに、ヌマはギリシアの哲学者ピュタゴラスの弟子だったという話が広まる。だがローマの歴史家リウィウス自身が、ピュタゴラスはそれより百年以上あとの人だとして、この話を退けている。戦いで国を作ったロムルスに対し、ヌマは法と神々への務めで国を作り直した王として描かれる。

アントニオ・パルマ画『ヌマ王とアウグルの寓話』(16世紀)
アントニオ・パルマ画『ヌマ王とアウグルの寓話』(16世紀)Wikimedia Commons anonymous · Public domain

ヌマが最初にしたことの一つが、ヤヌスの神殿を定めることだった。門の神ヤヌスの社の扉は、ローマが戦争をしているあいだは開き、平和なときは閉じる。ヌマの治世の43年間、扉はずっと閉じていたと伝えられる。その次に閉じたのは、第一次ポエニ戦争が終わったあとの紀元前235年で、さらにその次はアウグストゥスの時代だった。戦いの絶えなかったローマで、扉を閉じたままでいられた王は、平和の象徴になった。

暦もヌマに帰される。ロムルスの暦は10か月で、冬の時期には月の名が無かったとされる。ヌマはそこに1月と2月を加え、月の満ち欠けをもとにした12か月の年を作った。1月はヤヌスにちなむ。さらに、裁判や民会を開いてよい日と、いけない日を定めた。月の暦は太陽の一年からずれていくため、ずれを埋める月を差し挟む工夫も伝えられるが、うまくはいかず、のちにカエサルの暦の改革(ユリウス暦の施行)で大きく作り直されることになる。

ヌマ・ポンピリウス像(ジャン=ギヨーム・モワット作、ルーヴル美術館)
ヌマ・ポンピリウス像(ジャン=ギヨーム・モワット作、ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

神々に仕える人々の組織も、多くがヌマに始まるとされる。祭儀を取り仕切る最高の神官団(ポンティフェクス)、ユピテル、マルス、クィリヌスの三神にそれぞれ仕える専任の神官、そして女神ウェスタの火を守る巫女たちである(ウェスタの火)。巫女は当初は四人、のちに六人とされ、30年のあいだ純潔を守って務めた。マルスに仕えるサリイと呼ばれる神官たちは、天から落ちてきたという盾を守った。盗まれないよう、ヌマは職人に見分けのつかない写しを11枚作らせ、本物とまぜたと伝えられる。境界石の神テルミヌスを祀って土地の境を神聖なものとし、笛吹きや大工、陶工など職人を九つの組合に分けたのもヌマだという。

ヌマは、泉の精エゲリアから夜ごとに教えを受けているとして、新しい定めを民に受け入れさせた。ローマの南の森の泉で、二人は会っていたとされる。のちのギリシアの伝記作家プルタルコスは、民を従わせるための賢い工夫だったと見ている。ヌマが老いて死ぬと、エゲリアは嘆き悲しんで泉になったという話も、ローマの詩人が歌っている。

プルタルコスによれば、ヌマは80歳を超えて穏やかに死に、ヤニクルムの丘に葬られた。自ら書いた神聖な書は、遺言で棺とは別の石の箱に納めて一緒に埋めさせたという。書かれた言葉ではなく、神官たちの記憶で教えを伝えるべきだと考えたからだとされる。

紀元前181年、ローマのヤニクルムの丘で、二つの石の箱が掘り出された。一つにはヌマの名があったが中は空で、もう一つには、神官の法を記したラテン語の書と、哲学を記したギリシア語の書が入っていたとリウィウスは記す。書を読んだ法務官は、国の宗教を壊すものだと判断し、民会の広場(コミティウム)で焼かせた。

ヌマが実在したかどうかは分からない。伝えられる制度の多くは、何百年もかけて少しずつ形になったものだろう。それでもローマ人は、自分たちの神々への務めが、戦をしなかった一人の賢い王によって定められたと信じ続けた。王政が倒れて共和政になっても(タルクィニウスの追放(王政の廃止))、神官団と暦と巫女はヌマの名とともに残り、ローマの宗教の骨組みであり続けた。

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