人物

セプティミウス・セウェルス

Septimius Severus
AD145年4月11日 – AD211年2月4日(享年65)
ローマ帝国重要度 3

概要

アフリカ生まれの最初の皇帝。ラテン語に訛りがあった。内戦に勝ち、近衛兵を入れ替え、兵の給料を上げた。ブリタニアの遠征先ヨークで死に、息子たちに「兵を富ませ、他は気にするな」と言い残した。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

コンモドゥスの暗殺と五皇帝の年AD192年12月31日 · 勝ち残った

本文

145年4月11日、北アフリカのレプティス・マグナ(いまのリビアの首都トリポリの東)に生まれた。この町はもとフェニキア人の植民市で、彼の家もカルタゴ系の血を引く地元の名家だった。一族は早くからローマ市民権を得ており、親族からは元老院議員も出ていた。彼のラテン語には生涯アフリカの訛りが残ったと伝えられる。後代の伝記集『ヒストリア・アウグスタ』には、皇帝になった彼を訪ねてきた妹がラテン語をほとんど話せず、恥じた兄が早々に故郷へ帰らせた、という話も載っているが、この伝記集の逸話は割り引いて読む必要がある。

セプティミウス・セウェルスの胸像、カピトリーニ美術館
セプティミウス・セウェルスの胸像、カピトリーニ美術館Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · CC BY 2.0

若くしてローマに出て弁論と法律を学び、元老院議員の官職の階段を上っていった。属州の総督や軍団の司令官を歴任し、最初の妻を亡くしたあと、シリアのエメサの太陽神の神官の家の娘ユリア・ドムナと結婚した。彼女の星占いに「王と結婚する」と出ていたことを聞いて求婚した、と伝えられる。ユリア・ドムナは才気ある女性で、のちに哲学者や文人を周りに集め、宮廷で大きな力を持った。

192年の大晦日にコンモドゥスが殺されると、ローマはコンモドゥスの暗殺と五皇帝の年に入った。後を継いだ老将ペルティナクスは、わずか3か月で給料に不満を持つ近衛兵に殺され、近衛兵は帝位を競りにかけて、最も高い金額を示した元老院議員ディディウス・ユリアヌスを皇帝にした。各地の軍はこれを認めなかった。193年4月、ドナウ川沿いのパンノニアの総督だったセウェルスは、配下の軍団に皇帝に推された。同じ頃、シリアではニゲルが、ブリタニアではアルビヌスが、それぞれ軍に推されていた。

セウェルス胸像
セウェルス胸像Wikimedia Commons Public domain

セウェルスの動きは速かった。ブリタニアのアルビヌスには副帝の地位を与えて味方につけ、自分はまっすぐローマへ進んだ。元老院はユリアヌスを見捨て、ユリアヌスは宮殿で殺された。ローマに入ったセウェルスは、近衛兵を丸腰で集めて全員を解散させ、ローマから追放した。代わりに自分のドナウ軍団の兵から新しい近衛兵を選んだ。殺されたペルティナクスの名を自分の名に加え、その仇を討つ者として振る舞った。

それから東へ向かい、194年、シリアのニゲルを小アジアのイッソスで破った。次に、用済みになったアルビヌスとの対決が来た。197年2月、ガリアのルグドゥヌム(いまのリヨン)の近くで、両軍合わせて数十万とも言われる兵がぶつかり、セウェルスは苦戦の末に勝った。アルビヌスの首はローマに送られた。セウェルスは元老院に乗り込み、アルビヌスを支持した議員たちを責め、29人の議員を処刑した。

ユリア・ドムナ
ユリア・ドムナWikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

続いて東方のパルティアに遠征し、197年から翌年にかけて都クテシフォンを落として略奪した(パルティア)。ティグリス川とユーフラテス川の上流の地を新たな属州メソポタミアとし、ローマの国境を東へ押し出した。故郷のアフリカでも国境を南へ広げ、砂漠の民の侵入に備えた。203年には、ローマのフォロ・ロマーノに彼の凱旋門が建てられた。パルティアに対する勝利を記念するこの門は、いまも同じ場所に立っている。

セウェルスの統治の芯は、軍だった。兵の給料を大幅に引き上げ、それまで禁じられていた現役兵の結婚を正式に認め、砦の外で家族と暮らすことも許した。新しく三つの軍団を作り、その一つをローマのすぐ近くに置いた。皇帝の力の源が元老院ではなく軍にあることを、これほどはっきり示した皇帝はそれまでいなかった。一方で、パピニアヌスら名高い法学者を重用し、ローマ法が最も円熟した時代の一つを作ったのも彼の治世である。

西暦1世紀頃のユーラシア勢力図(赤色がローマ、茶色がパルティア)
西暦1世紀頃のユーラシア勢力図(赤色がローマ、茶色がパルティア)Wikimedia Commons Gabagool · CC BY 3.0

208年、セウェルスは二人の息子カラカラとゲタを連れてブリタニアに渡った。ハドリアヌスの長城の北のカレドニア(いまのスコットランド)の部族を討つためだったが、仲の悪い息子たちを都の誘惑から離し、軍の中で鍛える狙いもあったとされる。遠征は山と沼に阻まれて決定的な勝利を得られず、すでに60代で痛風に苦しんでいた皇帝は、輿に乗って軍を率いた。

211年2月4日、セウェルスはブリタニアのエボラクム(いまのヨーク)で死んだ。65歳だった。カッシウス・ディオは、死の床で息子たちにこう言い残したと伝える。「兄弟仲良くせよ。兵士を富ませよ。ほかの者はみな気にかけるな」。

息子たちは最初の言いつけを守らなかった。共同皇帝として帝位を継いだ二人の対立は収まらず、同じ211年の暮れ、カラカラは母ユリア・ドムナの部屋に弟ゲタを呼び出し、母の腕の中で殺させた。カラカラは212年に帝国の全自由人に市民権を与えるアントニヌス勅令を出し、ローマにカラカラ浴場を造った。

アントニヌス勅令に関わる図版:Gießen, MS Papyrus Gissensis 40 Constitutio Antoniniana crop
アントニヌス勅令Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

セウェルスが開いた王朝は、235年まで続いた。兵士を富ませよという遺言のとおり、皇帝は軍の機嫌を取ることで帝位を保つようになり、その終わりとともに帝国は軍人皇帝時代の始まりに始まる混乱に入る。ギボンは彼を、帝国の衰退を招いた主な張本人の一人と書いた。アフリカ生まれの最初の皇帝は、帝国の重心が地中海の周縁と軍へ移っていく時代の始まりを体現していた。

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