ルビコン渡河

概要
軍を率いて属州の境を越えた時点で内戦が始まった。渡ったとされる川の比定には諸説ある。
場所
44.09°N 12.40°E · イタリア・エミリア=ロマーニャ州(比定に諸説)
関わった人(1)
ガイウス・ユリウス・カエサルBC100年7月12日(13日説あり)–BC44年3月15日 · 当人本文
ローマの法では、属州の総督が軍を率いて任地の外へ出ることは許されていなかった。北イタリアのガリア・キサルピナ属州と、ローマの本土であるイタリアとの境を流れていたのが、ルビコン川である。紀元前49年1月10日の夜、ガイウス・ユリウス・カエサルは一個軍団を率いてこの川を渡った。それは、共和国の政府に向けて剣を抜くことを意味した。ローマを二つに割る内戦が、ここから始まる。
そこに至るまでには、10年以上の駆け引きがあった。紀元前60年、カエサルはポンペイウス、クラッススと手を結んだ。第一回三頭政治である。翌年に執政官を務めたカエサルは、その後、ガリアの総督としてガリア戦争に乗り出し、8年かけていまのフランスとベルギーにあたる広大な土地を征服した。戦利品と、彼に忠実な歴戦の軍団と、ローマ市民の人気が、カエサルの手元に集まった。

だがその間に、三人の結びつきは崩れていた。紀元前54年、ポンペイウスに嫁いでいたカエサルの娘ユリアが出産で亡くなり、翌年にはクラッススが東方のパルティア遠征で戦死した。カエサルの台頭を恐れる元老院の保守派は、ポンペイウスを自分たちの側に引き寄せていく。
争点は、カエサルの身の安全だった。総督の任期が終われば、カエサルは軍を手放して一市民に戻る。そうなれば、政敵たちは執政官時代の違法な行為を理由に彼を訴え、政治生命を絶つつもりだった。カエサルは、ローマに戻らないまま次の執政官に立候補し、総督から執政官へ切れ目なく移ることで、訴追を受けない立場を保とうとした。元老院の強硬派は、これを認めなかった。

紀元前49年1月の初め、元老院はカエサルに軍の解散を命じ、従わなければ国家の敵とみなすと決議した。拒否権を使ってカエサルを守ろうとした護民官のアントニウスらは、身の危険を感じてローマを脱出し、カエサルのもとへ逃げた。護民官の身体の不可侵が踏みにじられたことは、カエサルにとって格好の大義名分になった。
カエサルはこのとき、ルビコン川の北、ラヴェンナにいた。手元にあったのは第13軍団だけで、主力はまだアルプスの向こうのガリアにいた。スエトニウスによれば、カエサルはその日、何事もないように見世物を見物し、夕食の席にも出た。日が暮れると、ひそかに馬車で抜け出し、道に迷って夜明け近くに川岸へ着いた。そこでしばらくためらったのち、渡河を決めたという。このとき葦笛を吹く大男が現れ、兵士のラッパを奪って吹き鳴らしながら対岸へ渡り、それを神の導きとして軍が続いた、という不思議な話まで添えられている。

このとき口にしたとされるのが「賽は投げられた」である。スエトニウスはラテン語でこの形を伝えるが、プルタルコスによれば、カエサルはギリシア語で、喜劇作家メナンドロスの一節を引いて叫んだという。ギリシア語の原文は「賽を投げよ」という命令に近い形だったとも言われる。どちらの言葉が、どちらの言語で発せられたのか、本当に言ったのかも、確かめる手立ては無い。
もう一つ奇妙なのは、カエサル自身が書いた『内乱記』に、ルビコン川がまったく出てこないことである。カエサルはただ、ラヴェンナから軍を率いてアリミヌム、いまのリミニに入ったとだけ書いている。国法を破った瞬間を、当事者はあえて書かなかったのかもしれない。劇的な場面は、後の時代の伝記作家たちの手で形を与えられた。
なお、当時のローマの暦は季節から大きくずれていた。1月10日といっても、太陽の運行で見れば前年の12月頃にあたるとされる。このずれを正すため、カエサルはのちにユリウス暦の施行を施行することになる。
一個軍団という少なさは、かえって相手の不意を突いた。ポンペイウスはイタリアで兵を集めきれず、執政官や多くの元老院議員とともにローマを捨てて南へ下り、3月にはアドリア海を渡ってギリシアへ逃れた。カエサルは2か月ほどでイタリア全土を押さえ、次いでスペインのポンペイウス派を破った。紀元前48年、ギリシアのファルサロスでポンペイウスの主力を破ると、エジプトに逃れたポンペイウスはそこで殺された。
軍を率いてローマに向かった将軍は、カエサルが初めてではない。40年近く前には、スッラが自分の軍をローマに進め、スッラの独裁を敷いていた。共和国の仕組みが、軍を握る個人を抑えられなくなっていたのである。カエサルは終身の独裁官となり、紀元前44年3月、カエサル暗殺で倒れた。だが共和政は戻らず、内戦の末にカエサルの養子オクタウィアヌスが初代の皇帝になる。

ルビコン川がいまのどの川にあたるのかは、確定していない。古代の川筋は変わっており、リミニの北にある複数の小さな川が候補に挙がってきた。1933年、イタリア政府はそのうちの一つを公式にルビコーネ川と改名したが、それで論争が終わったわけではない。それでも「ルビコンを渡る」という言い回しは、後戻りのできない決断をする、という意味で、いまも多くの言語で使われている。