ナウロコスの海戦
概要
ポンペイウスの息子セクストゥスがシチリアから海を握り、ローマを飢えさせていた。アグリッパが船を造り、水兵を訓練し、鉤付きの投射器で敵船を引き寄せて、300隻で破った。セクストゥスは東へ逃げて殺された。レピドゥスが兵に見捨てられ、三頭は二人になった。
場所
38.25°N 15.45°E · イタリア・シチリア
関わった人(3)
アグリッパBC63年–BC12年 · 勝ったセクストゥス・ポンペイウスBC67年–BC35年 · 負けたレピドゥスBC89年頃–BC13年 · 退けられた本文
紀元前44年のカエサル暗殺の後、ローマの権力は、カエサルの養子オクタウィアヌス、部将のアントニウス、レピドゥスの三人の手に渡った(第二回三頭政治と追放告示)。三人は政敵を追放告示で殺し、紀元前42年のフィリッピの戦いで暗殺者たちを滅ぼした。だが、なお一人、彼らに従わない者が残っていた。かつてカエサルと争ったポンペイウスの次男、セクストゥス・ポンペイウスである。
セクストゥスは、カエサルの死の後、元老院から艦隊の指揮権を与えられていたが、三頭の追放告示で追われる身となった。彼はシチリアを押さえ、追放された人々や逃亡した奴隷を受け入れて、地中海の西で最も強い艦隊を持つようになった。シチリアとアフリカとサルディニアは、ローマの人々の食べるパンの麦を送る土地である。セクストゥスが海を封じると、ローマの穀物の値は跳ね上がり、紀元前40年には飢えた市民が暴動を起こした。彼は自分を海の神ネプトゥヌスの子と称し、海の色の青い外套をまとったと伝えられる。三頭の側の人々は、彼を海賊と呼んだ。

紀元前39年、三頭はミセヌムでセクストゥスと和議を結び、彼がシチリアなどを治めることを認めた。和議の祝いの宴がセクストゥスの船で開かれたとき、部下のメナスが、錨の綱を切って三頭を連れ去りましょうと耳打ちした。セクストゥスは、黙ってやればよかったのだ、私が誓いを破るわけにはいかない、と答えたという。和議は長続きせず、翌年には戦いが再開した。紀元前38年、オクタウィアヌスの艦隊は二度にわたって敗れ、嵐で多くの船を失った。
オクタウィアヌスは、海の戦いを幼なじみの部将アグリッパに託した。アグリッパはナポリの近くで、海に面したルクリヌス湖と内陸のアウェルヌス湖を水路でつなぎ、敵に見られずに船を造り、訓練できる港を作った。大型の軍船を造り、漕ぎ手として奴隷2万人を解放して訓練したと伝えられる。新しい兵器も工夫した。投射機で鉤のついた銛を敵の船に打ち込み、綱で引き寄せて乗り移る「ハルパクス」である。セクストゥスの船は小さく速く、操船の巧みさで勝ってきたが、引き寄せられてしまえば、兵の数で勝る側が有利になる。アントニウスも、兵と引き換えに船を貸した。

紀元前36年夏、三頭は三方からシチリアを攻めた。8月、アグリッパはシチリアの北岸のミュラエ沖でセクストゥスの艦隊を破ったが、別の方面ではオクタウィアヌス自身が大敗し、危うく命を落としかけた。そして9月3日、ミュラエの東のナウロコス沖で、両軍はそれぞれ300隻ほどの船を出して決戦に臨んだ。セクストゥスは陸からこれを見守った。アグリッパの船はハルパクスで次々に敵船を引き寄せ、セクストゥスの艦隊は壊滅した。沈んだり焼かれたり捕らえられたりした船は二百数十隻に及び、逃げおおせたのは17隻だけだったと伝えられる。
セクストゥスは東へ逃れ、アントニウスを頼ろうとしたが、結局は小アジアで捕らえられ、紀元前35年、ミレトスで処刑された。手を下したのはアントニウスの部下で、アントニウスの命令があったのかどうかは、古代の書き手の間でも説が分かれている。

勝った側でも、思わぬことが起きた。シチリアに大軍を率いて上陸していたレピドゥスが、島は自分のものだと言い出したのである。オクタウィアヌスは、わずかな供を連れてレピドゥスの陣営に乗り込み、兵士たちに語りかけた。兵は次々にオクタウィアヌスの側に移り、レピドゥスは見捨てられた。彼は三頭の地位を奪われたが、最高神祇官の職だけは残され、イタリアの海辺の町で余生を送った。三頭は二人になった。
ローマに戻ったオクタウィアヌスは、内戦は終わったと宣言し、税を軽くし、内戦の時代の文書を焼いて見せた。彼には護民官と同じ身体の不可侵が与えられた。アグリッパは、それまで誰も受けたことのない、船の舳先をかたどった黄金の冠を授けられた。だが残った二人の争いは、5年後、紀元前31年のアクティウムの海戦で決着する。そこでもオクタウィアヌスの艦隊を率いたのはアグリッパだった。父のポンペイウスは若い日に地中海の海賊を一掃して名を上げたが、その子は海賊と呼ばれて海で敗れた。ナウロコスがシチリアの北岸のどこにあったのかは、今もはっきりしていない。