ディオクレティアヌス
概要
帝国を四人で分けて統治し、三世紀の危機を収めた。自ら退位した数少ない皇帝。
所属
ローマ帝国関わったできごと(2)
四分統治の開始AD293年 · 当人ディオクレティアヌスの最高価格令AD301年 · 皇帝本文
244年頃、アドリア海に面したダルマティア地方、いまのクロアチアのサロナ近くに生まれた。もとの名はディオクレスという。家は貧しく、父は解放奴隷だったとも、書記だったとも伝わる。身分の低い出自の若者にとって、出世の道は軍隊しかなかった。

彼が生きたのは、「3世紀の危機」と呼ばれる時代である。235年からのおよそ50年の間に、正式に認められた皇帝だけで20人を超え、そのほとんどが戦死するか、兵士に殺された。東からはササン朝ペルシア、北からはゲルマンの諸部族が国境を破り、帝国は一時、西のガリア帝国と東のパルミラに割れた。アウレリアヌスの帝国再統一で統一は取り戻されたが、アウレリアヌスもまた部下に殺された。貨幣は銀の含有が落ちてほとんど値打ちを失い、物価は跳ね上がった。
ディオクレスは軍の中で昇進を重ね、皇帝カルスの時代には皇帝の親衛隊の指揮官になっていた。284年、ペルシア遠征の帰りに、カルスの息子の皇帝ヌメリアヌスが輿の中で死んでいるのが見つかった。小アジアのニコメディアで、兵士たちはディオクレスを新しい皇帝に推した。彼は兵士たちの前で、ヌメリアヌスを殺したのは近衛長官アペルだと告発し、自らの剣でその場でアペルを刺し殺したと伝えられる。翌年、西にいたもう一人の皇帝カリヌスを破り、名をディオクレティアヌスと改めて帝国の唯一の支配者になった。

彼が最初に手をつけたのは、一人では帝国を守りきれないという現実の受け入れだった。285年、軍人仲間のマクシミアヌスを副帝とし、翌年には正帝に引き上げて帝国の西半分を任せた。293年にはさらに二人の副帝、ガレリウスとコンスタンティウスを置き、東西それぞれに正帝と副帝がいる体制を作った(四分統治の開始)。四人の皇帝はそれぞれの持ち場で国境を守り、各地の反乱を鎮めた。正帝が退けば副帝が継ぐ、という順送りの仕組みで、帝位をめぐる内乱を断とうとした。
統治の仕組みも作り替えた。50ほどだった属州を細かく割って100ほどにし、それをいくつかの管区にまとめた。一人の総督が大きな軍と広い土地を持って反乱を起こすことを防ぐため、文官と軍の指揮官を分けた。軍の規模は大きく増やされた。その費用をまかなうため、人と土地の面積や収穫の力を調べ上げて税をかける新しい制度を作り、価値の不安定な貨幣ではなく、穀物などの現物で取れるようにした。

301年には、1000を超える品目や賃金について上限の価格を定める勅令を出した。小麦や肉、靴、運賃、教師の謝礼までが細かく決められ、上限を超えて売った者は死罪とされた。だが効き目は無かった。キリスト教徒の著述家ラクタンティウスは、品物が市場から消え、わずかな値のことで血が流された、と書いている。勅令はほどなく顧みられなくなった。
皇帝のあり方も変わった。ディオクレティアヌスは自らを最高神ユピテルの加護を受ける者とし、宮廷では人々に、ひざまずいて衣の裾に口づけをする礼を求めた。初期の皇帝が「市民の第一人者」を装っていたのとは違い、皇帝は臣下の上に立つ「主人」になった。この時代以降を「専制君主政」と呼ぶことがある。
治世の終わり近く、303年からキリスト教徒への大規模な迫害が始まった(ディオクレティアヌスの大迫害)。ニコメディアの教会が取り壊され、続く勅令で聖書の焼却、聖職者の投獄、ローマの神々への犠牲の強制が命じられた。ラクタンティウスは、迫害を強く促したのは副帝ガレリウスだったと書いている。エジプトでは迫害の激しさから、のちにディオクレティアヌスの即位の年を起点とする「殉教者紀元」の暦が使われるようになった。だが迫害は、キリスト教を消すことはできなかった。311年にはガレリウス自身が寛容令を出し、313年にはミラノ勅令で信仰の自由が認められる。

305年5月1日、ディオクレティアヌスはニコメディアで退位した。同じ日に、西のマクシミアヌスもミラノで退位している。生きたまま自ら帝位を降りたローマ皇帝は、ほとんど例がない。彼は故郷に近いアドリア海岸に築いた広大な宮殿に移り住んだ。
だが、彼の作った順送りの仕組みは、退位の直後から崩れた。皇帝たちの息子が父の地位を求め、四人が六人になり、内戦が始まった。308年、混乱を収めるための会議に招かれ、帝位への復帰を勧められたとき、ディオクレティアヌスは、私がサロナで自分の手で育てたキャベツを見せられたら、そんなことは勧めないだろう、と答えたと伝えられる。311年頃に亡くなった。病死とも、失意の中で自ら命を絶ったともいわれ、没年にも異説がある。

最後に内戦を勝ち抜いたのは、副帝コンスタンティウスの息子、コンスタンティヌス1世だった。四分統治は終わったが、細かく分けた属州、文官と武官の分離、現物の税、主人としての皇帝といった仕組みの多くは、そのまま後の帝国に引き継がれた。アドリア海岸の宮殿は、のちに人々が住み着いて町になった。いまのクロアチアの都市スプリトの旧市街である。彼の霊廟は、のちにキリスト教の大聖堂に作り替えられた。迫害した皇帝の墓が、教会になっている。