ミトリダテス6世
概要
毒殺を恐れて少量の毒を飲みつづけ、22の言語を話し、ローマと三度戦った。最後は息子に裏切られ、毒が効かず、部下に殺させた。
関わったできごと(1)
ミトリダテス戦争BC88年 · 王本文
ミトリダテス6世は紀元前135年ごろ、黒海の南岸のポントス王国に生まれた。都は港町シノペ。王家はペルシアの貴族の血を引くと称し、母方からはアレクサンドロス大王の後継者たちの王家の血も受けていた。ペルシアとギリシアの両方を名乗れる王子だった。

紀元前120年ごろ、父ミトリダテス5世が宴の席で毒を盛られて死んだ。息子は12歳前後だった。母ラオディケが摂政となり、弟のほうを後継ぎに推した。命の危険を感じた王子は宮廷を離れ、7年ものあいだ山野に隠れて狩りをして暮らした、とローマの歴史家は伝える。毒殺を恐れて、少しずつ毒を飲んで体を慣らす習慣を始めたのも、このころからだという。後世には、彼が調合したとされる解毒の万能薬「ミトリダティウム」の名が残った。どこまで本当かは分からないが、毒を恐れる王の話は古代から有名だった。
紀元前113年ごろ、王子は都に戻り、母を捕らえて牢に入れ、弟を殺して、ただ一人の王となった。母は獄中で死んだ。王家の慣わしに従い、姉のラオディケを妃にした。

ミトリダテスは国を黒海の周りへ広げた。北岸のクリミア半島では、ギリシア人の植民市が遊牧民スキタイの圧迫に苦しみ、ポントスに助けを求めてきた。将軍ディオファントスを送ってスキタイを破り、クリミアのボスポロス王国を手に入れた。東のコルキス、小アルメニアも支配下に入れ、黒海はほぼポントスの海になった。穀物と兵と船が、黒海の全域から集まった。プリニウスは、王が支配下の22の民の言葉を話し、通訳なしで裁きをしたと書いている。
南の小アジアでは、カッパドキアやビテュニアの王位をめぐって、ローマとぶつかった。ローマの属州アジアでは、徴税請負人の取り立てが重く、ギリシア人の都市はローマを憎んでいた。紀元前89年、ローマがイタリアの同盟市との戦争で手一杯のあいだに、ミトリダテスは小アジアに攻め込み、ギリシア人の解放者として迎えられた(ミトリダテス戦争)。紀元前88年、王は各地の都市にひそかに命令を送り、決めた日に、そこに住むローマ人とイタリア人を、女や子どもも含めて皆殺しにさせた。死者は8万人とも15万人ともいわれる。ローマの将軍アクィリウスは捕らえられ、溶かした金を喉に流し込まれて殺されたと伝わる。ローマ人の強欲への報いだ、という見せしめだった。

ギリシア本土のアテネまでがポントスの側についた。ローマからスッラが来て、アテネを落とし、ギリシアの戦場でポントス軍を破った。紀元前85年、ミトリダテスは征服地を返す条件で和を結んだ。スッラはローマへ戻って内戦に勝ち、独裁官となる(スッラの独裁)。ミトリダテスは王国を保った。
紀元前73年、三度目の戦争が始まった。ローマのルクルスは巧みに戦い、ミトリダテスを国から追い出した。逃げる前、王は宦官を宮殿に送り、妃や姉妹たちに死を命じた。敵の手に渡さないためである。ギリシアのミレトスから迎えた妃モニメは、髪に巻いた王の飾り紐で首をくくろうとしたが紐が切れ、こんなものさえ役に立たないのかと嘆いて、喉を差し出したとプルタルコスは書く。ミトリダテスは娘婿であるアルメニア王ティグラネスのもとへ逃れ、やがて国を取り戻した。

ローマはポンペイウスを送った。紀元前66年、ポンペイウスはポントス軍を夜襲で破った。ミトリダテスはわずかな供を連れてコーカサスを越え、クリミアへ逃れた。70歳近い王はそこでなお、ドナウ川沿いに進んで北からイタリアへ攻め込む計画を立て、兵を集め、税を取り立てた。兵も民も、もう疲れていた。
紀元前63年、息子ファルナケスが兵を味方につけて背いた。追い詰められた王は、そばにいた二人の娘とともに毒を飲んだ。娘たちはすぐに死んだが、王には効かなかった。長年、毒に体を慣らしてきたためだと伝えられる。ミトリダテスはガリア人の護衛の隊長に、剣で自分を殺すよう命じた。72歳ほどだった。知らせを受けたポンペイウスは、送られてきた遺体を王として扱い、シノペの王家の墓に葬らせた。その後ポンペイウスは南へ向かい、エルサレムを占領する(ポンペイウスのエルサレム占領)。
ミトリダテスとの戦いは、25年に及んだ。ローマにとっては、ハンニバル以来の最も手ごわい敵の一人だった。ポントスの王国はローマの属州に組み込まれた。ファルナケスはクリミアの王位を許されたが、のちに小アジアの父の旧領を取り戻そうとして、カエサルに一瞬で打ち破られる。「来た、見た、勝った」の戦いである。