できごと

西ローマ帝国の滅亡

Fall of the Western Roman Empire
AD476年
重要度 5
ローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシア西ローマ帝国ペルシア東ローマ帝国サーミフン帝国メロエヒムヤル王国コーカサスのアランガーナ王国ブレンミュエス西ゴート東ゴートAD476年ラヴェンナ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD476年の版図を描いています(15勢力)。

概要

最後の皇帝が退位させられた。古代の終わりの目印として使われるが、当時そう感じた人はいなかった。

場所

ラヴェンナ
44.42°N 12.20°E · イタリア・エミリア=ロマーニャ州

関わった人(2)

オドアケルAD433年–AD493年3月15日 · 退位させたロムルス・アウグストゥルスAD460年頃–? · 退位した

本文

5世紀のローマ帝国の西半分は、すでにかつての帝国ではなかった。410年には西ゴートのローマ略奪が起き、455年にはヴァンダルのローマ略奪が続いた。北アフリカの穀倉地帯はヴァンダル人に、ヒスパニアとガリアの多くは西ゴート人やフランク人に押さえられていた。皇帝は残っていたが、実権はゲルマン系の将軍たちが握り、彼らが皇帝を立てては廃した。455年からの20年ほどで、西の皇帝は9人も入れ替わっている。

最後の皇帝を立てたのは、オレステスという軍人だった。かつてアッティラの書記を務めたこともある人物で、475年、仕えていた皇帝ネポスをラヴェンナから追い出し、まだ少年だった自分の息子ロムルスを帝位につけた。人々は彼を、皇帝の称号を縮めて「アウグストゥルス」、小さなアウグストゥスと呼んだ。最後の皇帝の名が、ローマの建国者ロムルスと初代皇帝アウグストゥスの名を合わせたものだったのは偶然になる。

406年の執政官就任を記念する二連板に描かれたホノリウス帝
406年の執政官就任を記念する二連板に描かれたホノリウス帝Wikimedia Commons Public domain

イタリアの軍の主力は、ゲルマン系の諸部族から集めた兵だった。彼らはイタリアの土地の3分の1を自分たちに分けるよう求めた。かつてローマは、同盟した部族を属州に住まわせるとき、土地やその収入の一部を割り当てることがあった。それをイタリアの本土でも認めよ、という要求である。オレステスが拒むと、兵たちは隊長の一人オドアケルを担いで反乱を起こした。476年の夏、オドアケルはオレステスを捕らえて殺し、ラヴェンナに入ってロムルス・アウグストゥルスを退位させた。日付は9月4日とされる。

オドアケルは少年を殺さなかった。年金を与え、ナポリ近くの別荘に送ったと伝えられる。その後の消息はよく分かっていない。

416〜418年に異民族諸集団へ割り当てられた地域
416〜418年に異民族諸集団へ割り当てられた地域Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Medievalista assumed (based on copyright claims). · Public domain

オドアケルは、自分が皇帝を名乗らなかった。帝位の記章を東のコンスタンティノープルへ送り、西に別の皇帝は要らない、自分はイタリアを東の皇帝の名の下に治める、と伝えた。東の皇帝ゼノンは、これをはっきり認めも拒みもしなかった。追われたネポスはダルマティアで480年に殺されるまで皇帝を名乗り続けており、法の上ではこちらを最後の西の皇帝とする考え方もある。

つまり、当時の人にとってこれは「ローマ帝国が滅びた日」ではない。帝国は東に続いており、そこでは人々は自分たちをローマ人と呼び続けた。西でも、税は取られ、元老院は開かれ、ローマの法とラテン語は使われていた。オドアケルはローマの役人を使い、元老院の貴族たちと協力して治めた。暮らしの上で、476年の前と後とで急に何かが変わったわけではない。

西ローマ帝国の廃墟から生まれた東ゴート王国
西ローマ帝国の廃墟から生まれた東ゴート王国Wikimedia Commons Public domain

オドアケル自身は、ドナウ川の北にいたゲルマン系の部族の有力者の子とされ、若いころにイタリアへ来て、ローマ軍の中で頭角を現した人物だった。父はアッティラの側近だったという説もある。異民族の出身でありながら、ローマの制度の中で出世し、その制度を使って治めた。この時代の西方の支配者たちの多くが、そういう人々だった。

オドアケルの支配は17年で終わる。東の皇帝の後押しを受けた東ゴートの王テオドリックがイタリアに入り、493年にラヴェンナでオドアケルを殺した。テオドリックのイタリア統治は、ローマの制度をさらに丁寧に保とうとした。その東ゴート王国も、6世紀にユスティニアヌスの再征服で滅ぼされる。皮肉にも、ローマの皇帝による長い再征服の戦争のほうが、イタリアの町と人口に深い傷を残した。

帝位を退くロムルス・アウグストゥルス(19世紀の挿絵)
オドアケルWikimedia Commons Bernhard Mörlins (B. Moerlins) · Public domain

476年を区切りとして書いた最初の一人は、6世紀の東ローマの年代記作家マルケリヌス・コメスとされる。彼は、西のローマ人の帝国はこのアウグストゥルスとともに滅んだ、と記した。ただ、これを古代の終わりとして定着させたのは、ずっと後の時代である。ルネサンスの人文主義者たちは古代と自分たちのあいだを「中世」と呼び、18世紀にはエドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』を書いた。476年は、そうした区切りの目印として選ばれた年になる。

いまの研究では、この時代を「滅亡」と見るか「変容」と見るかで立場が分かれる。ピーター・ブラウンらは、ローマの世界がキリスト教やゲルマンの王国と混ざりながら形を変えて続いた「古代末期」として描いた。これに対し、ブライアン・ウォード=パーキンズらは、発掘される陶器や貨幣、家畜の骨の大きさなどから、西方では5世紀以降に暮らしの水準がはっきり落ちたことを示している。どちらも一面を見ている。

ロムルス・アウグストゥルスの金貨(ソリドゥス)
ロムルス・アウグストゥルスWikimedia Commons ANS · CC0

なぜ西だけが崩れたのかについても、答えは一つではない。ギボンは、キリスト教が市民の気風を弱めたことと、蛮族の侵入を挙げた。その後も、重い税、通貨の劣化、疫病、気候の変化、軍の質の低下、指導層の内紛など、あらゆる原因が持ち出されてきた。ドイツの歴史家アレクサンダー・デマントは、それまでに唱えられた原因を集めて210にのぼると数えている。多くの研究者がいま重く見るのは、豊かな東が税収を保ち続けたのに対し、西は北アフリカなどの税の取れる土地を失い、軍を養えなくなったという点である。兵に払えなくなった政府は、土地を分け与えるしかなかった。オドアケルの兵が土地を求めたのは、その最後の一押しだった。

ローマの名は、その後も消えなかった。東の帝国は1453年まで続き、800年にはカール大帝の戴冠で、西にふたたびローマ皇帝が立った。476年の出来事は、終わりそのものではなく、終わりにされた日だった。

動画(1)

076 ゲルマン人の大移動 世界史20話プロジェクト第09話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第76講「ゲルマン人の大移動」

出典(4)

塩野七生 『ローマ人の物語』XV ローマ世界の終焉
エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』第36章
マット・リドレー(大田直子、鍛原多惠子、柴田裕之 訳) 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』第9章 転換点
ウォルター・シャイデル(鬼澤忍、塩原通緒 訳) 『暴力と不平等の人類史 戦争・革命・崩壊・疫病』第3部(国家の崩壊という平等化)

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