ガイセリックのカルタゴ占領
概要
スペインからジブラルタルを渡ったヴァンダル族8万が、10年でローマの穀倉を取った。カルタゴの艦隊を得て地中海を荒らし、455年にローマを14日略奪した。「ヴァンダリズム」の語は18世紀にフランスの司教が作った。100年後にベリサリウスが滅ぼした。
場所
36.85°N 10.32°E · チュニジア・チュニス県
関わった人(1)
ガイセリックAD389年頃–AD477年1月25日 · 王本文
406年の大晦日、凍ったライン川を渡って、ヴァンダル族、スエビ族、アラン族などがローマ帝国のガリアに入ったと伝えられる。ヴァンダル族は数年にわたってガリアを荒らした後、409年にピレネー山脈を越えてイベリア半島に入った。半島の南部のアンダルシアという地名は、ヴァンダル族に由来するという説があるが、確かではない。イベリア半島では、ローマと同盟した西ゴート族との戦いが続いた。
428年、ヴァンダル族の王になったのがガイセリック(ガイセリック)である。翌429年、ガイセリックは一族を率いてジブラルタル海峡を渡り、北アフリカに上陸した。人数は8万人と伝えられるが、これは戦士だけでなく、女性や子ども、老人を含めた数である。6世紀の歴史家プロコピオスは、ローマの北アフリカの総督ボニファティウスが、帝国の宮廷と対立した末にヴァンダル族を招いたと書いているが、この話は後世の創作だと考える研究者が多い。

北アフリカは、ローマ帝国で最も豊かな地方の一つだった。とくにカルタゴの周りの土地は、ローマの市民に配る小麦の大きな供給源で、オリーブ油の産地でもあった。ヴァンダル族は西から東へ進み、430年、ヒッポ・レギウスの町を囲んだ。町の司教は、キリスト教の神学者として名高いアウグスティヌスだった。アウグスティヌスは包囲が始まって3か月ほどたった430年8月、町の中で病死した。包囲は14か月に及び、町はやがて明け渡された。
435年、西ローマ帝国はヴァンダル族と条約を結び、北アフリカの西部への定住を認めた。だがガイセリックの狙いは、もっと豊かな東のカルタゴにあった。439年10月19日、ガイセリックは条約を破って突然カルタゴに入った。ほとんど抵抗はなかったと伝えられる。古代のカルタゴの跡に築かれたローマの都市は、帝国の西半分でローマに次ぐ大都市の一つだった。
カルタゴを取ったことで、ヴァンダル族はローマの穀倉と、港と、船を手に入れた。ゲルマン人の部族が、地中海に艦隊を持ったのである。ヴァンダルの船はシチリアやサルデーニャ、イタリアの沿岸を襲い、地中海の西半分の海の道を脅かした。442年、西ローマ帝国は条約を結び直して、ヴァンダル族がカルタゴを含む北アフリカの最も豊かな地方を治めることを認めた。帝国にとって、ローマの食糧を支えてきた土地を失ったことの痛手は大きかった。
455年、西ローマの皇帝ウァレンティニアヌス3世が殺されると、ガイセリックは艦隊を率いてイタリアに渡り、ローマを2週間にわたって略奪した(ヴァンダルのローマ略奪)。教皇レオ1世が交渉して、町を焼くことと住民を殺すことは控えさせたとされる。ヴァンダル族は宮殿や神殿の財宝を運び出し、殺された皇帝の妃と娘たちを連れてカルタゴへ戻った。

西ローマと東ローマは、ヴァンダル王国を討とうとした。460年、西ローマの皇帝マヨリアヌスが用意した艦隊は、スペインの港でヴァンダル族の奇襲を受けて焼かれた。468年には、東ローマが1000隻を超える大艦隊と大軍を送ったが、カルタゴの近くのボン岬の沖で、ガイセリックの放った火船に焼かれて大敗した。この失敗は東ローマの財政に大きな傷を残した。ガイセリックは477年に亡くなるまで、50年近く王であり続けた。476年に西ローマ帝国が終わったとき、ヴァンダル王国はその外で生き残っていた。
ヴァンダル族はキリスト教徒だったが、イエスを神と同じ本質とは認めないアリウス派を信じていた。北アフリカのローマ系の住民の多くはカトリックで、ヴァンダルの王たちはカトリックの司教を追放し、教会を取り上げることがあった。とくにガイセリックの子のフネリックの時代には、厳しい迫害が行われたと記録されている。

ヴァンダル王国は、およそ100年続いた。533年、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は将軍ベリサリウスを北アフリカに送った(ユスティニアヌスの再征服)。ベリサリウスはカルタゴの近くでヴァンダル軍を破り、カルタゴに入った。12月にはトリカマルムでも勝ち、翌534年、最後の王ゲリメルは降伏した。ゲリメルはコンスタンティノープルの凱旋の行進で引き回されたのち、小アジアに土地を与えられて余生を送ったという。
「ヴァンダリズム」という言葉は、文化財や公共の物をむやみに壊すことを意味する。これはフランス革命のさなかの1794年、聖職者で議員のグレゴワールが、革命の熱狂の中で教会や美術品が破壊されることを非難して作った言葉である。だが、455年のローマの略奪は、同じ時代の他の略奪と比べて特に破壊的だったわけではなく、ヴァンダル族は財宝を持ち去ったが、町を焼き払いはしなかった。ヴァンダル族は、後の時代に不当に悪名を着せられたと言える。