人物

ハドリアヌス

Hadrianus
76年1月24日 – 138年7月10日(享年62)
ローマ帝国重要度 5

概要

拡大をやめて境界を固めた。ブリタンニアに長城を築き、帝国中を巡った。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(4)

ローマ帝国の最大版図AD117年 · 守りへ転じたハドリアヌスの長城AD122年 · 命令ハドリアヌスのパンテオンAD126年 · 皇帝バル・コクバの乱AD132年 · 皇帝

本文

76年1月24日に生まれた。一族はヒスパニア南部の植民市イタリカの出で、本人もそこで生まれたとする説とローマで生まれたとする説がある。10歳で父を亡くし、父の従兄弟にあたるトラヤヌスが後見人の一人になった。この縁が、のちに帝位へつながる。

ハドリアヌスの胸像(カピトリーノ美術館)
ハドリアヌスの胸像(カピトリーノ美術館)Wikimedia Commons Marie-Lan Nguyen · Public domain

少年の頃からギリシアの文学と哲学に打ち込み、「小ギリシア人」とあだ名された。狩りを好み、詩を書き、建築にも口を出した。100年頃にトラヤヌスの姪の娘ウィビア・サビナと結婚する。夫婦の仲は冷たかったと伝わり、子はいない。トラヤヌスのダキア戦争に従軍し、属州総督や執政官を経て、東方遠征の際にはシリア総督を任された。

117年、トラヤヌスはパルティア遠征の帰途、小アジアで病に倒れて死んだ。死の床でハドリアヌスを養子にしたと発表されたが、皇后プロティナが死を伏せて取り繕ったという噂が、当時からあった。真相は分からない。

ハドリアヌスの長城
ハドリアヌスの長城Wikimedia Commons Jamesflomonosoff at English Wikipedia · Public domain

即位して最初にしたのが、前任者が征服したばかりのメソポタミア、アッシリア、アルメニアの放棄だった(ローマ帝国の最大版図)。ローマが最も広くなった直後に、自ら拡大をやめる決断になる。新しい属州では反乱が相次いでいて、保ち続ければ果てしない戦費がかかると判断したとされる。軍人や元老院の一部は、これを弱腰と受け取った。即位直後には、陰謀の疑いで元老院議員4人が処刑され、元老院との関係はその後もぎこちないままだった。

治世21年のうち、半分以上を帝国の巡幸に費やした。121年に旅立ち、ガリア、ゲルマニア、ブリタンニア、ヒスパニアを回り、さらに小アジアやギリシアへ向かった。一度ローマに戻ったのち、128年からはギリシア、小アジア、シリア、エジプトを巡っている。軍団の駐屯地を訪れては兵と同じものを食べ、演習を見て、規律を引き締めた。自分の目で属州を見て回った皇帝は、ほかにいない。

ハドリアヌスとテセウスを讃えたハドリアヌスの凱旋門
ハドリアヌスとテセウスを讃えたハドリアヌスの凱旋門Wikimedia Commons Dudley Miles · CC0

ブリタンニアでは、北部の島を横切る長大な防壁を築かせた(ハドリアヌスの長城)。全長およそ117キロ、石の壁に一定の間隔で砦と見張り塔が並ぶ。ゲルマニアの国境にも木の柵が作られた。ローマはここで、帝国の境界を線として地上に引いたことになる。壁は外敵を完全に防ぐためというより、人と物の出入りを見張り、関税を取るための施設だったとも考えられている。

建築への関心は強かった。ローマでは、火災で焼けたパンテオンを、直径43メートルを超える円蓋をもつ建物として建て直させた(ハドリアヌスのパンテオン)。正面には元の建設者アグリッパの名を刻ませ、自分の名は入れていない。郊外のティブルには、旅先で見た建物を写した広大な別荘を造った。アテナイでは数百年工事が止まっていたゼウスの大神殿を完成させ、ギリシア世界の諸都市の連合を作っている。

ハドリアヌスによって星になった愛人アンティノウス。メルカトル天球儀1551に描かれたもの
ハドリアヌスによって星になった愛人アンティノウス。メルカトル天球儀1551に描かれたものWikimedia Commons Gerard Mercator (1512-1594) · Public domain

ギリシア文化への傾倒は、外見にも表れた。ハドリアヌスは髭を生やした最初のローマ皇帝で、それまでの皇帝の像はみな髭を剃っている。以後、皇帝の肖像はたいてい髭を蓄えるようになる。

巡幸の途中、ビテュニア出身の美しい若者アンティノウスを寵愛した。130年、エジプトを旅していた折、アンティノウスはナイルで溺れ死んだ。事故とも、自ら身を投げたとも言われ、確かなことは分からない。ハドリアヌスは激しく嘆き、その場所に新しい都市アンティノオポリスを建て、彼を神として祀らせた。アンティノウスの像は帝国中に立てられ、いまも多数残っている。

ハドリアヌスが自らの霊廟として建設を開始したサンタンジェロ城
ハドリアヌスが自らの霊廟として建設を開始したサンタンジェロ城Wikimedia Commons Andreas Tille · Public domain

ユダヤ属州では、エルサレムをローマ風の都市アエリア・カピトリナに作り替え、神殿の跡にユピテルの神殿を建てる計画を進めた。割礼の禁止も重なったとする説がある。132年、シモン・バル・コクバを指導者とする大反乱が起きた(バル・コクバの乱)。鎮圧には3年以上かかり、ブリタンニアから将軍を呼び寄せている。歴史家カッシウス・ディオは、ユダヤ人の死者を58万人と書く。数は誇張を含む可能性があるが、ユダヤの村々が壊滅したことは確かである。

反乱の後、ユダヤ人はエルサレムへの立ち入りを禁じられ、属州の名もユダヤからシリア・パレスティナに改められたとされる。70年のエルサレム神殿の破壊に続くこの措置が、ユダヤ人が故地を離れて各地に散らばるディアスポラを決定づけた。

エルサレム神殿の破壊に関わる図版:(Venice) La distruzione del tempio di Gerusalemme -Francesco Hayez - gallerie Accademia Venice
エルサレム神殿の破壊Wikimedia Commons Didier Descouens · Public domain

晩年は病に苦しんだ。後継に選んだルキウス・アエリウスが138年の初めに病死すると、穏やかな元老院議員アントニヌスを養子に迎え、その条件として、のちのマルクス・アウレリウスと、ルキウス・ウェルスをアントニヌスの養子にさせた。二代先までの後継を定めたこの配置が、五賢帝と呼ばれる時代の後半を形作る。

138年7月10日、ナポリ湾のバイアエで死んだ。62歳だった。死の前に作ったとされる短い詩が伝わる。小さな魂よ、さまよう魂よ、身体の客であり友であったものよ、いまどこへ去っていくのか、と呼びかけるラテン語の詩である。遺骸は、テヴェレ川のほとりに自ら造らせた霊廟に納められた。この建物はのちに城塞となり、いまはサンタンジェロ城と呼ばれている。

トラヤヌス帝の胸像「デケンナリア型」(トゥールーズ、サン=レーモン美術館)
トラヤヌス帝の胸像「デケンナリア型」(トゥールーズ、サン=レーモン美術館)Wikimedia Commons Didier Descouens · Public domain

20世紀、フランスの作家ユルスナールは、死を前にしたハドリアヌスが次の皇帝に書き送る手紙という形の小説『ハドリアヌス帝の回想』を書いた。拡大より安定を選び、自分の足で帝国を確かめた皇帝として、いまも人を惹きつけている。

動画(1)

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