アントニヌスの疫病

概要
東方遠征から戻った軍が持ち帰った。天然痘とされる。帝国の人口の1割前後が死に、マルクス・アウレリウスの治世の背景になる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
2世紀の半ば、ローマ帝国は長い平和の中にあった。五賢帝と呼ばれる皇帝たちのもとで、国境は安定し、地中海の周りの都市は大きくなり、道と港を通って人と物が帝国の端から端まで行き交った。人口は数千万に達していたと見積もられる。その行き来の多さが、病にとっても道になった。
161年、マルクス・アウレリウスは、義理の弟ルキウス・ウェルスと二人で帝位に就いた。同じ年、東のパルティアがアルメニアに手を伸ばし、ローマはこれに応えて東方へ大軍を送った。ルキウスが名目上の総大将となり、将軍アウィディウス・カッシウスの軍はユーフラテス川を下って、165年から翌年にかけてティグリス川のほとりの大都市セレウキアを攻め落とした。疫病が軍の中に現れたのは、この遠征の終わりごろのことである。

後の時代の歴史家は、セレウキアのアポロンの神殿で兵士が黄金の箱をこじ開けたところ、中から疫病の気が飛び出して世界を汚した、という話を伝えている。神々の罰として病を説明する物語である。実際には、メソポタミアの戦場で兵士たちがかかった病が、凱旋する軍とともに西へ運ばれたのだろうと考えられている。166年には病はローマに達し、そこから帝国の隅々へ広がった。
この病について最も詳しい記録を残したのは、当時ローマにいた医師のガレノスである。ガレノスは166年に一度ローマを離れたが、まもなく皇帝に呼び戻され、北イタリアのアクイレイアで冬営していた軍で流行に立ち会った。彼の書き残した症状は、熱、喉の渇き、下痢、そして全身に広がり、かさぶたになってはがれ落ちる黒っぽい発疹である。こうした記述から、病は天然痘だったと考える研究者が多いが、はしかなど別の病の可能性を挙げる人もいて、確定はしていない。
流行は一度で終わらず、波のように繰り返した。死者の数を示す記録はほとんどなく、推定には大きな幅がある。帝国の人口の1割前後とする見方が多いが、数パーセントにとどまるとする説から、4分の1に及んだとする説まである。エジプトの村々に残るパピルスの税の記録には、この時期に住民が大きく減り、逃げ出して空になった村が出たことが記されている。人が密に暮らす都市と、兵士が集まる軍営で、とくに被害が大きかったと考えられている。
帝国はこの病と同時に、北の国境の戦争を抱えた。166年ごろから、ドナウ川の向こうのゲルマン人の諸部族が川を越えて攻め込み、170年ごろには一部が北イタリアのアクイレイアにまで迫った。マルコマンニ戦争である。兵が足りなくなった皇帝は、奴隷や剣闘士、山賊までを兵に加えたと伝えられる。ルキウス・ウェルスは169年に遠征の途中で倒れて死んだ。疫病によるとする見方もあるが、卒中だったとする史料もあり、はっきりしない。

マルクス・アウレリウスは、残りの治世の大半をドナウの前線の陣中で過ごした。その間に、自分のためだけに書きとめたギリシア語の覚え書きが、後に『自省録』として知られるようになる。そこには、人の命のはかなさや、死を恐れずに自分の務めを果たすことへの思いが、繰り返し記されている。疫病についても、心の腐敗は空気の汚れによる疫病よりはるかに悪い、という意味の一節がある。180年、皇帝はドナウの陣中で亡くなった。その死も疫病によるものだったという説がある。
息子のコンモドゥスの時代の189年ごろにも、ローマで大きな流行があり、歴史家カッシウス・ディオは、一日に2000人が死ぬこともあったと書いている。
同じ166年、中国の後漢の宮廷に、大秦王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスのことと考えられている)の使者を名乗る者たちが海路でやってきた(大秦王安敦の使者)。後漢でもこの後、160年代から170年代にかけて疫病の流行が何度も記録されている。東西の流行がつながっていたかどうかは分からないが、ユーラシアの両端が、交易の道でゆるやかに結ばれていたことはうかがえる。
アントニヌスの疫病がローマ帝国の衰えの始まりだったのかどうかについては、見方が分かれる。人口と税収、軍の兵力を大きく削り、帝国の黄金時代を終わらせた転機だったとする研究者がいる一方で、帝国はこの打撃から立ち直り、本当の危機は3世紀になってから来たとする研究者もいる。その3世紀には、別の大きな疫病であるキプリアヌスの疫病が、三世紀の危機の帝国を襲うことになる。