ケルト人のローマ略奪
概要
ローマが外敵に落とされた数少ない例。以後800年、市が占領されることはなかった。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
BC5世紀から4世紀にかけて、アルプスの北にいたケルト人の集団が、次々に山を越えてイタリア北部の平野へ移り住んでいた。ローマ人は彼らをガリア人と呼んだ。ポー川の流域にいたエトルリア人の町は押され、ケルト人の一派セノネス族はアドリア海沿いに南へ広がった。そのころのローマは、ティベル川のほとりの一都市にすぎない。BC396年に北の隣町ウェイイを長い包囲の末に落とし、ようやく周りで頭一つ抜け出したところだった。
伝承によれば、きっかけはエトルリアの町クルシウムだった。セノネス族に囲まれたクルシウムはローマに助けを求め、ローマは名門ファビウス家の3人を使者として送った。ところが使者たちは交渉の場から戦いに加わり、ケルト人の首長を討ち取った。使者が武器を取るのは諸民族の掟に反する。ケルト人は引き渡しを求めたが、ローマは応じないどころか、その3人を翌年の高官に選んだ。怒ったケルト人は、クルシウムを捨ててローマへ向かったという。この話には、敗北の責任を一族の過ちに負わせる後の脚色が含まれているとみられている。

ローマ軍は、市の北およそ15キロ、ティベル川に注ぐ小川アッリアのほとりでケルト人を迎え撃った。そして、ほとんど戦わないうちに崩れた。大きな体で長い剣を振るい、叫び声を上げて突進してくるケルト人に、ローマの兵は浮き足立ち、多くはウェイイの方へ逃げた。ローマ人はこの日(7月18日)を、のちのちまで不吉な日として暦に残した。
ローマは、ほぼ無防備になった。当時のローマには、町全体を囲む堅い城壁がまだなかったと考えられている。戦える若者たちは中心の丘カピトリウムに立てこもり、女や子どもの多くは近隣の町へ逃れた。ウェスタの巫女たちは聖なる火を守って北のカエレへ落ち延びた。ケルト人は市内に入り、家々を焼いた。

この数か月について、後の歴史家たちは多くの逸話を書き残している。逃げずに家の前に座っていた老いた元老院議員たちが、あまりに静かなので神の像かと思われ、ひげに触れたケルト人を杖で打ったのを合図に皆殺しにされた話。夜、崖をよじ登ってカピトリウムを襲おうとしたケルト人に、番犬は気づかなかったが、女神ユノの神殿のガチョウが騒いで守備兵を起こした話。そして、引き揚げの代わりに求められた1000ポンドの金を量るとき、ローマ人が秤の重りの不正を訴えると、ケルトの首長ブレンヌスが剣を秤に投げ入れて「敗者に災いあれ」と言った話。どれも生き生きとしているが、後世の脚色をどこまで含むかは分からない。
結末も、伝えられ方が分かれる。ローマの歴史家リウィウスは、追放されていた将軍カミルスが軍を率いて駆けつけ、金が引き渡される前にケルト人を打ち破ったと書く。一方、ギリシア人のポリュビオスは、ケルト人は故郷の土地が別の部族に攻められたと聞いて、金を受け取って引き揚げたと書いている。ローマが金を払って町を取り戻したという、名誉にならない話を、後の伝承が英雄の活躍で上書きしたとみる研究者は多い。年代も、伝統的なBC390年に対し、ポリュビオスの記述からはBC387年か386年ごろとされる。
町が焼かれた後、ローマ人のなかには、焼け跡を捨てて落としたばかりのウェイイへ移ろうという声もあったと伝えられる。結局ローマはその場所で建て直された。やがて市の周りを延長11キロほどの石の城壁が囲む。伝承では王の名をとってセルウィウスの城壁と呼ばれるが、使われた石の多くはウェイイの領地から切り出されたもので、実際に築かれたのはこの略奪の後のBC4世紀前半とされる。軍の編成も、この後の数十年で大きく改められていった。
ケルト人への恐れは、ローマの心に深く刻まれた。ガリア人が攻めてきたときには、普段は兵役を免れる者まで集める特別の召集が行われた。ガリアとの戦いのために取り置かれた国庫の金があったとも伝えられ、のちにガイウス・ユリウス・カエサルはガリアを平らげたからもう要らないと言ってこれを使ったという。300年あまり後のガリア戦争は、この古い恐怖に区切りをつける戦いでもあった。

ローマ市が再び外敵に落とされるのは、およそ800年後の410年、アラリックが率いた西ゴートのローマ略奪である。