四分統治の開始
概要
帝国を四人で分けて治める仕組み。危機は収まったが、のちに内戦の種になる。
関わった人(1)
ディオクレティアヌスAD244年頃–311年 · 当人本文
3世紀のローマ帝国は、崩れかけていた(三世紀の危機)。235年からのおよそ50年で、皇帝の位に就いた者は20人を超え、そのほとんどが軍に擁立され、軍に殺された。東ではササン朝ペルシアが攻め込み、北ではゲルマンの諸族が国境を越えた。西のガリアと東のパルミラは一時、帝国から離れた国を作っている。274年にアウレリアヌスが帝国を再びまとめたが(アウレリアヌスの帝国再統一)、その彼もすぐに部下に殺された。
284年、東方の軍が、親衛隊を率いていたディオクレティアヌスを皇帝に推した。ディオクレティアヌスは、アドリア海の東岸ダルマティアの低い身分の家の出で、解放奴隷の子だったともいわれる。兵士から身を起こし、40歳ほどで皇帝となった。

彼の見立ては、一人の皇帝では帝国は広すぎる、というものだった。東のペルシアと北のドナウ川、西のライン川で同時に敵が動けば、皇帝はそのどれか一つにしか行けない。皇帝のいない前線では、勝った将軍が兵に担がれて新しい皇帝を名乗る。それが50年の混乱の正体だった。
286年、ディオクレティアヌスは戦友のマクシミアヌスを、自分と同じ正帝(アウグストゥス)とし、帝国の西半分を任せた。そして293年、二人の正帝の下に、それぞれ副帝(カエサル)を置いた。東の副帝にはガレリウス、西の副帝にはコンスタンティウスが選ばれた。副帝は正帝の娘や義理の娘を妻とし、家族として結びつけられた。四人の皇帝は、それぞれ別の都に宮廷を置いた。東の正帝は小アジアのニコメディア、西の正帝は北イタリアのミラノ、副帝たちはライン川に近いトリーアやドナウ川沿いの町である。ローマ市は、名誉ある都ではあっても、政治の中心ではなくなった。

この仕組みは、跡継ぎの問題にも答えを出していた。正帝が退けば副帝が正帝に上がり、新しい副帝を選ぶ。血筋ではなく、能力のある軍人を選んで継がせる設計だった。ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の外壁には、この四人を表すとされる赤い斑岩の像がある。四人は同じ顔、同じ姿で、互いの肩を抱き合っている。一つの帝国を一つの意志で治める四人、という理想がそこに刻まれている。
ディオクレティアヌスは、帝国の仕組みも作り直した。属州を細かく分けて数を倍ほどに増やし、軍を指揮する者と行政を担う者を分けて、地方の長官が反乱を起こしにくくした。軍を増やし、それを養うために、土地と人の数に基づく新しい税の仕組みを作った。301年には、物価の高騰を抑えるため、品物ごとの最高価格を定める勅令も出したが、商品が市場から消えて、うまくいかなかった。皇帝の前に出る者にはひざまずいて礼をすることを求め、皇帝を神々に守られた、近寄りがたい存在として演出した。303年には、キリスト教徒に対する帝国全土での大規模な迫害を始めている(ディオクレティアヌスの大迫害)。

国境は落ち着き、反乱はおさまった。そして305年5月1日、ディオクレティアヌスは、約束どおりマクシミアヌスとともに退位した。生きている皇帝が自ら位を退いたのは、ローマの歴史で初めてだった。彼は故郷の海辺、いまのクロアチアのスプリトに建てた宮殿に移った。宮殿の跡はいまもスプリトの旧市街として残り、人々がその中に住んでいる。
だが、設計は作った本人が退いた途端に崩れた。新しい副帝の選び方に、西の副帝コンスタンティウスの息子コンスタンティヌスも、マクシミアヌスの息子マクセンティウスも入らなかった。翌306年、コンスタンティウスがブリタニアのヨークで亡くなると、父の軍団がその場でコンスタンティヌス(コンスタンティヌス1世)を皇帝に推した。ローマではマクセンティウスが皇帝を名乗り、退位したマクシミアヌスまで復帰を試みた。息子を持つ者は息子に継がせたがり、兵は自分たちの将軍の息子を推した。

308年、混乱を収めるための会議に、ディオクレティアヌスも引退先から呼ばれた。もう一度皇帝に戻ってほしいと求められた彼は、私がサロナで自分の手で育てたキャベツを見せられたら、そんなことは勧めないだろう、と答えたと伝えられる。
その後の帝国は、皇帝たちのあいだの内戦の時代になった。312年、コンスタンティヌスはローマ近郊のミルウィウス橋でマクセンティウスを破り(ミルウィウス橋の戦い)、翌年、東の皇帝リキニウスとともにキリスト教を公認した(ミラノ勅令)。324年にはそのリキニウスも倒して、ただ一人の皇帝となる。306年に擁立されてから、18年の争いの末だった。ディオクレティアヌスは、それを見届けることなく、310年代のうちに宮殿で亡くなっている。没年には諸説ある。

四分統治は長続きしなかったが、帝国を複数の皇帝で分けて治めるという考えと、ディオクレティアヌスが作った行政の仕組みは後に残った。395年、帝国は東と西に分かれ、東の帝国はその後1000年続くことになる(東ローマ帝国)。