ローマ帝国の東西分割
概要
テオドシウスの死で東西に分けられ、二度と一つに戻らなかった。
本文
395年1月、テオドシウス1世がミラノで病死した。48歳前後だった。帝国は二人の息子に分けられた。東は17歳の兄アルカディウスが、西は10歳の弟ホノリウスが継ぐ。
分割そのものは初めてではない。3世紀末、ディオクレティアヌスは広すぎる帝国を一人では守りきれないと考え、正帝と副帝を東西に二人ずつ置いて分担させた(四分統治の開始)。コンスタンティヌス1世がいったん一人で全土を治めたが、その死後は再び兄弟や同僚の間で分けられることが多かった。364年からは、ウァレンティニアヌス1世が西を、弟のウァレンスが東を治めている。テオドシウスが二人の息子に分けたのも、その延長にすぎない。
当時の人々も、帝国が二つの国になったとは考えていなかった。法律は二人の皇帝の連名で出され、どちらで作られた法も全土に効くのが建前だった。執政官も東西で一人ずつ立てられた。帝国は一つで、皇帝が二人いる、という理解である。
それでも、テオドシウスの死は分かれ目になった。テオドシウスは、東の皇帝でありながら二度にわたって西の内乱を鎮め、短い期間ではあったが帝国の全土を一人で治めた。その後、一人で東西を治めた皇帝は二度と現れない。違ったのは、二度と一つに戻らなかったことである。

東西の差は、もともと大きかった。東には人口の多い都市と、エジプトという穀倉と、東方との交易路があった。330年に新しい都として整えられたコンスタンティノープル(コンスタンティノープル遷都)は、三方を海に囲まれた守りやすい場所にあった。西は経済的に弱く、ライン川とドナウ川上流の長い国境を抱え、兵の補充をゲルマン系の人々に頼る度合いが高かった。
その弱さを決定的にしたのが、378年のハドリアノポリスの戦いである。ドナウを越えて帝国に入ったゴート族が、皇帝ウァレンスの軍を破り、皇帝自身も戦死した。後を継いだテオドシウスはゴート族を討ちきれず、彼らを帝国の領内に住まわせ、自分たちの王のもとで帝国のために戦う同盟者として受け入れた。帝国の中に、帝国の言うことを必ずしも聞かない武装集団を抱えることになった。

幼いホノリウスを支えたのは、ヴァンダル族の父を持つ将軍スティリコだった。スティリコは、テオドシウスが死の床で二人の息子の後見を託したと主張したが、東の宮廷はこれを認めなかった。東西の宮廷は互いを疑い、ゴート族の王アラリックは、その対立の間を巧みに渡り歩いた。東はアラリックを西へ向かわせることで、自分の側を守ろうとしたとも言われる。
以後、西が侵入を受けても、東は本気で助けない。助ける余裕が無かったのか、自分の側を守るのが精一杯だったのか、どちらの説明もされる。406年の暮れにはヴァンダル族などがライン川を越えてガリアに流れ込み、408年にはスティリコが宮廷の陰謀で処刑された。410年、アラリックはローマを略奪する(西ゴートのローマ略奪)。ローマが外敵に落とされたのは、800年ぶりのことだった。

西の皇帝は、守りやすい湿地に囲まれたラヴェンナに宮廷を移して閉じこもった。ヴァンダル族は北アフリカを奪い、西の穀倉と税収の柱が失われた。455年にはそのヴァンダル族がローマを略奪する。将軍たちが皇帝を立てては廃する時代が続き、476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルが少年皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、西の帝位を空けたまま、皇帝の印を東の皇帝に送り返した(西ローマ帝国の滅亡)。
東は、5世紀の初めに都の陸側に三重の城壁を築き、侵入者をくい止めた。6世紀にはユスティニアヌス1世が、イタリアや北アフリカを一時取り戻し、帝国をもう一度一つにしようとした。だがそれも長くは続かなかった。

80年後、西は消える。東は、ローマ帝国の名を名乗り続けながら、1453年まで1000年あまり続いた。私たちが東ローマ帝国、あるいはビザンツ帝国と呼ぶ国である。
西の帝国がなぜ滅び、東はなぜ残ったのかは、歴史家が何百年も論じてきた問いである。18世紀のイギリスの歴史家ギボンは、キリスト教と蛮族の勝利を衰亡の原因に挙げた。近年は、西のローマが一夜で滅んだのではなく、ゲルマン人の王国へとゆっくり姿を変えていったと見る研究者も多い。一方で、その過程で暮らしの水準が大きく下がったことを、考古学の成果から強調する研究者もいる。帝国の東西の分かれ目は、やがて言葉の違い(西のラテン語と東のギリシア語)や、教会の違い(ローマ・カトリックと東方正教)とも重なり、ヨーロッパの東と西の境として長く残ることになった。